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2018/06/25 11:58 am

姉から96歳の母の具合いが悪いと連絡があり、実家に顔をだしてきました。

母本人はよろよろしているものの口だけは元気で、「お母さんに何があっても驚くんじゃないわよ」と脅します。

「最後の味になるかもしれないから持っていきな」と庭の梅のジャムを。

帰りに「庭の花を土産に持って行きな」「アジサイは水切りよ」と指示。

親分肌で仕切り上手は弱っても変わりません。首を伸ばして私を見送った母は、今週、検査です。
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母のことは何度か書いてきたのでだぶるかと思いますが。

一番昔の記憶は、抱かれておっぱいをしゃぶっている記憶です。私がそんな赤ちゃんの時のことを覚えているのではなく、覚えるくらいになってもおっぱいを求めていたのでしょう。要は甘ったれで、母も甘やかしていたのでしょうね。

次は母の背中におんぶされて、門で父を待っている時間もよく覚えてます。これはよくありました。サラリーマンの父が帰るころを見計らって、よく門の陰に隠れ「わっ!」と脅かしたりしました。いたずら好きの母でした。今思えば、何かおばあちゃんと喧嘩して、私を負ぶって外に出たのかもしれません。

とはいえ母はお嫁に行ったのではなく、父が母の家に入った形。名前だけは父の姓でしたが、母は婿取りをしたような状態で、自分の両親を看取っています。

私が小学生くらいまで、洗濯は井戸でしていました。木のタライに洗濯板。固形石鹸をごしごしつけて。夏は気持ちいいでしょうが、冬はどうやって我慢したのか。
冬の母の手は、しもやけやらあかぎれやら。この時代のお母さんはどこのうちでもそうだったでしょうね。私にはできない!

となりの家に洗濯機が来た時は、母はうらやましそうで、大きなものを持って行き、「絞らせて〜」とローラーの間にシーツなどはさみ、グルグルと取っ手を回すと絞れることに感動していました。そういう時は必ず、場つなぎで私も連れて行かれたものです。

当時はお肉は貴重品、そもそも千葉の田舎の肉屋に、牛肉などあったのか?たまに買う豚肉をフライパンで炒め、生姜醤油をかける。これが我が家でいう焼肉でした。一皿のキャベツの千切りの上にのったお肉を、みんなが少しずつ食べます。決まって「お母さんは、お肉はきらい。下の醤油の染みたキャベツが好き」と言って食べなかった母でした。

独身時代、目黒の“ドレメ”に通っていたので服を作るのが好き。ジャージャーと音を立てる編み機でセーターを編んだり、黒い鉄の足踏みミシンで服を作ったり。私と姉は母手製の服を着せられていました。そうそう、レース編みもずいぶん編んでは人にあげていましたね。

婦人会活動に目覚めて、会長職を引き受けて、「辞めろ」という父と喧嘩したことがありました。天ぷらを揚げながら、ポロポロ涙を流していました。母の涙はこの時しか見ていません。そもそも両親の喧嘩らしきものはこの時だけのように記憶しています。仲良しだったし、どちらかが我慢していたのでしょうね。

戦争の話では、「千葉のまちが空襲にあったとき、焼け野原の街を何キロも歩いて勤め先から帰って来たんだよ、死体も見たよ。」「アメリカ兵が来たら米びつに隠れろとおじいちゃんが言っていた」などと繰り返し話していました。母の家は米屋だったので、大きな茶箱のような入れ物に米があったのだそうです。そこに逃げ込めと、言われていたのでしょう。

私も姉も中学から私立のお嬢様学校に入れられました。母が出た学校に娘二人を入れたかったらしいのです。だから家計は大変で、私が中学生になると母は近くの親戚の薬局の店員さんを始めました。立ちっぱなしで疲れ、「横になるときが一番いいね〜」と布団に寝転がり、よく腰や肩にトクホンを貼らされました。



その後、私は不良になり(笑)、18歳で家出。その後、25歳くらいからまた実家と行き来し、今に至ります。父が亡くなった時も、家がもらい火で全焼した時も動じない母です。あの度胸と、いつも、まずにっこり笑う笑顔は見習いたいと、ここ数年は思ってきました。

昨夜、1年分くらいの梅ジャムを前に、夫と私は母の“すごさ”の話になりました。

火事の時です。母から電話があり、出た夫に、まずは「久しぶりね、二人とも元気?」から話が始まったのでした。しばらく普通の会話をした後、「あのね、今度来ても、泊まってもらうおうちがなくなっちゃったのよ」と。夫はここで、お母さん急にボケたのか?と思ったそうです。

「は?」「だから、もうおうちがないの」「どうしたんですか?」「燃えたの」「か、火事ですか〜〜〜〜!!」この話は、思い出すたびに私たちは大笑いし、さすがお母さんとほめたたえます。

母は、昔から悪い情報を伝えるときはなるべく自分で飲みこんで、淡々とするたちです。なので、この時もボケたのではなく、驚かせまいという気遣いだったのでした。なので、今回私が行っても「あんた、お姉ちゃんによばれたんでしょう」とにっこり笑い、淡々と。冒頭の話となります。

私が小学校の頃は、庭の花を切り、教室へ持って行かされました。電車通学だったので、花を持って行くのは結構大変だったのですが。持って行けば教室が輝いて、うれしかったものです。

今回も母の指示通り私が切った花を見て、満足そうに「今頃の花は青が多いね」と柔らかく笑っていました。


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連絡先

野口 智子 のぐち ともこ
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局
ゆとり研究所

TEL 090-7433−1741
E-Mail yutori@noguchi-tomoko.com

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略歴

<野口智子(のぐちともこ)>
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局長
千葉市生まれ。東京でコピーライター、プランナーを経験。1977年静岡県に移り企画・編集プロダクション設立。
1992年ゆとり研究所を開きコンサルタント業務を開始。
ライフスタイルの提案、「一店逸品運動」による商店街の活性化、時間消費型観光おこし、人材育成などの分野で活動。
2000年からスローライフ運動を開始、2003年スローライフ・ジャパンを設立、現在、事務局長・副理事長。
2006年から活動拠点と自宅を東京へ。現在はスローツーリズムの提案、商品開発、地域観光の育成、都市と田舎の交流、移住・定住プロジェクト、“食”をテーマにしたまちおこし、などに力を入れている。住民参加の独自の楽しいワークショップが得意。
現在、地域力創造アドバイザー(総務省)、地域再生マネージャー(ふるさと財団)、国土審議会半島振興部会委員。