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ちょっとしたこと おばちゃんの味 2018/10/08 10:32 am

どこの土地でも女性たちが、素朴ながらも工夫をした食べ物を作り、地域の顔を作っています。

雲仙こぶ高菜漬け入りの巻き寿司と饅頭、地元野菜果物入りのドレッシング、アイディア豆腐蒲鉾、ジャガ団子汁、雲仙市でいただいた味はどれもが頑張る中年女性、おばちゃんの手によるものでした。

この味がいまや、旅の時間の重要な彩りとなっています。
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「山の駅 べジドリーム」の小林芳子さん。最初、東京でお会いした時は、従業員の方かと思っていましたが、なんと社長さんでした。

「周りがみんな畑で、果物・野菜がとってもいいのができるの。これをもっと食べてほしい、打ち出したいとドレッシングを作ったんです」




とのことで、ここのドレッシングは無添加、無着色。イチゴ、ミカン、パクチー、ビーツなど、いろいろな種類があります。

野菜にかけるだけでなく、お肉や魚にもたっぷりかけたくなる。数種類をかけて、その色や味を楽しみたくなります。ここのメイン商品です。



カフェの窓から見えるのは、畑。その先に海。

農作業している人、学校帰りの子どもたち、ギューンと伸びる野菜たち、そんな農の日常を眺めながらヘルシーな食事ができる。目からも健康になるロケーションです。

写真を撮ろうとしたら小林さん、「帽子かぶるわ!」。なるほど、真っ赤な帽子が決まっていました。


「雲仙こぶ高菜漬け」を作っている馬場節枝さん。以前からお世話になっていますが、久しぶりの訪問。

「朝、4時に起きていろいろやって、いまなの」と。さっき起きた私などより、数倍ももはや働いている!

しかも、卵で巻いた太巻き寿司と、ふわふわ蒸かし饅頭も作っていてくださいました。

早速いただくと、どちらにもきちんと「こぶ高菜漬け」が入り、その存在を主張しています。

こぶ高菜は雲仙の伝統野菜、その漬物はイタリアのスローフード協会が認めた、希少な味です。







ただ、漬物だけではなかなか食べる機会がないので、様々にこうして漬物の出番を作っているのでしょう。

「絶対に、なくしちゃならない味だから、頑張るの」と馬場さん。こぶのある珍しい高菜「こぶ高菜」は、力こぶのこぶなのでした。



「あい娘酒造」の山崎智佐子さん。まるで“鶴瓶の家族に乾杯”のようにブラッと現れた、私の相手を笑顔でしてくださいます。

「お酒?いただきますよ、主人と。ハイ、毎晩。もちろん一番安いのを飲んでますよ〜〜」と大笑い。





水のいい雲仙です。造り酒屋さんは昔はたくさんあったとか。今はほんの数軒ですが、こうして地酒の蔵とお店がきちんとある、というのは幸せな土地ですね。

永遠の娘さんのような奥様と、自分のつくったお酒を晩酌なんて、ご主人もお幸せです。




帰ろうとして足元のガーデニング?に気付きました。昔の徳利が、雨上がりに瑞々しく美しく並んでいます。

この店先で、キューッと一杯飲みたくなりました。






「みゆき蒲鉾本舗」の久山つや子さん。この人がいるだけで、その場がピチピチと活きが良くなり、元気オーラをいただけるお日様みたいな方。

今回も、お店で「あら〜〜〜〜♪せんせ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」と飛びついてくれます。




50年前から製法の変わらない大きな四角い「天ぷら」、ソウルフードですね。

こういうのをちぎってかじりながら、日本酒なんて美味しいに決まっています。

このお店で有名なのは「とうふ蒲鉾」上品な滑らかな味はワインにあいますね。


「食べてみて、食べてみて、これも、こっちも食べてみて」と次々に。ここに映っていない新作もずいぶんいただきました。

「今度、こういうの作ってみてくださいよ」と私がひとこと提案すると「うん、うん、やる、やってみる、いいね、うん♪」と、もう走って試作しそうな勢い。即やる!!蒲鉾パワーでしょうか。


「小浜ビジネスホテル」の女将さんと、お嫁さん。ああ、しまった、お名前を聞き忘れた。すみません。

地方の海辺の小さなビジネスホテルです。でもしっかり天然温泉がかけ流しです。湯の花の巨大な塊が温泉の流れる口になっている、まるで古木のようでした。ああ、この写真も撮り忘れた。



女将さんと前日にちょっと会話した時、特産のジャガイモの話になりました。

食べ方のことを聞いたいたら「ジャガイモの団子汁美味しいですよ」とのこと。もちろん「え?それ食べたい」とリクエストして、朝ごはんにご登場となりました。

普通の朝ごはんですが、この汁が「雲仙ジャガだぞー」と胸を張っています。

箸で割るとほっくらと、口に含むとジャガの香り、そして、あら、意外にお餅のようにねっとりと。

「私よりうちのお嫁さんが作るの上手いんですよ」と女将さん。「ジャガをすりおろして、ザルでこすと、水分とその下にはでんぷんの白い粉がたまるので、水は捨てて、そのでんぷんとザルのジャガとを混ぜて団子にするんです」とお嫁さん。

そんな手のかかることをしてくれたんだ・・・。「特別じゃないんです、連泊のお客さんにはよく出すんです。喜ばれますよ」と女将さん。

ほっとする味でした。

どうでしょう?いずれも味を支える女性たちです、女性による地域の味です。もしこのおばちゃんたちに会わずに、この味に触れずに、ただ景色を見て、旅館料理だけを食べて帰ったら、観光地はどこものっぺらぼうでしょう。

こういう人たち、こういう味を大事にできる土地が、この時代生き残っていくと思います。

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ちょっとしたこと 手づくりの交流拠点 2018/09/02 9:59 pm

おなじみの紀の川市に観光交流拠点が、オープンしました。

驚くのは多くの市民が実際に手を下して、ワークショップで拠点整備していることです。

壁を塗る、テーブル・イスを作る、配布するマップの情報集めも市民参加。

誰かが作ってくれた場所よりも、自分の時間が染み込んだ建物には最初から愛着がわくはずです。

観光まちづくりを進める、市民の心の拠点にもなることでしょう。
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果物産地紀の川市では(一社)フルーツ観光局という組織ができて、今、日本版DMOになろうと手を挙げ邁進中です。

その事務所も入るのがこの建物。「猫駅長」で世界的に知られる和歌山電鐵貴志川線・貴志駅の目の前に9月2日にオープンしました。

私と長いお付き合いをしてくださっている、紀の川市職員の方が「できたぞ〜!」とポーズをとっておいでです。(笑)

その後ろにそびえる?のがその建物。ビルディングでもないし、小屋でもないし、なんとなく親近感が持てるプチサイズ。

なんといっても2階の目玉状の窓がユニーク。用がなくても思わず覗いてみたくなる、チャーミングな拠点施設です。

1階には、フルーツを活かした品物が。特産の桃がふんだんに使われたジャム。市民グループが地元創業企業と開発した「桃ハンドクリーム」。ハッサクのお菓子。等々珍しいものが並びます。







とにかく外国人のお客様の多い貴志駅です。ここにはいろいろな言語のパンフレットがずらり。

この拠点で相談して、「そうか近くでイチゴ狩りして帰ろう」とか「ほう?古い日本の農家や古墳があるんだ。ブラブラ歩てみよう」「名刹までサイクリングに行こう!」なんて思ってくれればいいわけです。


注目はこのマップ。高齢者には少し見にくいですが、駅近くのミニ情報が“下手上手”なタッチのイラスト・文字で描かれています。

これこそ市民参加の手作りマップ。何回もワークショップが行われ、貴志駅に降り立った人に10分くらいで歩いてほしいポイントを市民目線で実際に歩いて整えました。

プロの広告屋さんや、旅行代理店だったらまさか観光資源とは思わない、瓦屋根の鬼瓦や、苗木の畑、田んぼや、小さな祠、地元の和菓子屋まで、英語でご紹介です。

「外国人さん見てね、観光客さん歩いてね」という市民の気持ちが、素人づくりだからこそジワジワと伝わってきます。このマップだけ持ち帰ってもいいお土産になるでしょう。

2階に上がるとお茶会をやっていました。

茶会と言っても緊張しないゆる〜いお茶会。ここの市民有志が立ち上げた「ふるうつ流」というお茶の流派?

茶菓子は地元の果物使用。お茶は自分で点てたり、点てだしだったり。とにかくリラックスする茶会なのです。

この日のお菓子はマスのなかに、イチジクの寒天寄せその上にブドウ、ナシ、そして白餡。

果物はもともと水菓子と呼ばれていたのですから、その甘さがお菓子のように思えてきます。

抹茶にあう!

玄関に「ふる〜つ茶会」と大きな幕がありましたが、この幕とともにあちこちで、もう何回もこの茶会は開かれています。

ふと見ると、テーブルに果物の絵。あ、これも手作りなんだ。


藤の実と、フェイジョアの実が活けられて。これもフルーツ?

こんな設えの観光交流拠点なんて、いいですね〜。








あら、壁も手作りです。珪藻土を市民の方々がワークショップで塗りあげました。

紀の川のイメージの流れが描かれて、あちこちにフルーツが。







よく見ると壁の果物はビーズでできています。これをどんな人がワクワクしながら壁に貼り付けていったのか。

それを想像してまたワクワクします。






驚いていると、「テーブルの下も見てください」とご案内が。

あらまあ、茶会をしているテーブルの天板の裏側には子どもたちの落書きです。

親子でこのテーブルや椅子をつくり、記念に落書きをしたのだとか。参加した親子は、「僕の椅子」「我が家作のテーブル」といつまでも自慢できますね。

市民参加の拠点整備を考え数々のワークショップを企画運営した地域おこし協力隊の新美真帆さんです。

これまでの普通の市職員さんでは、なかなかできなかったことにチャレンジしました。

全国各地に観光交流拠点施設は山ほどありますが、どれもがかっこよすぎたり、ハードはいいのに中身が伴わない、居る人に熱意が無かったりが多いものです。

市民参加、いや市民主体が観光まちづくりの基本。これからもこういうワークショップをどんどん企画していってほしいものです。

建物2階にある丸窓は小さな穴を手で回すと、外から見て目がクルクル回るという仕組み。

小さな拠点ですが、ここから市域はもちろん、世界360度を見回して、目が回るほどの楽しい交流を起こすように。

応援していますよ〜。

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ちょっとしたこと デカンショ節 2018/08/13 2:54 pm

兵庫県篠山市の民謡で、毎年8月15・16日には「デカンショ祭」としてやぐらを囲んで総踊りが行われます。

昔、篠山の若者から旧制一高の学生に伝わり、宴会のはやし唄として広まったため、年配の方々はご存知でしょう。

ただの盆踊りの曲かと思うと、歌詞がなかなかいい。「半年寝て暮らす」とか「酒は呑め呑め」「唄うて廻れ世界いずこの果てまでも」と、スローライフソングなのです。
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「デカンショデカンショで半年暮らす ヨイヨイ あとの半年寝て暮らす ヨオーイ ヨオーイ デカンショ」

私が知っている「デカンショ節」この歌詞。どこでどう覚えたのかは定かではないですが、「デカンショ節?知ってるよ」とこのくらいは唄えたものです。

それがこの度たまたま篠山市でお仕事をすることになり「え?ここの歌なの?」から始まったわけです。

私に常識がないといえばそうなのですが、若い人に聞くと「デカンショ節???」とその歌の存在そのものを知らない方が多いのが現実です。

ならば調べましょ、伝えましょう、とこのブログです。


篠山には「篠山城址」の近くに「丹波篠山デカンショ館」があり、この歌の歴史が分かります。

もともとは江戸時代から篠山地方で唄われていた「みつ節」という歌が元歌だそうです。

一年中続く厳しい農作業や労働から解き放たれて、盆踊りに酔う。夜明けまでこの歌と踊りが続いたようです。

旧篠山藩青山家は、明治になり廃藩後、篠山の若者を東京に招き学ばせました。

その若者たちが夏、避暑に今の千葉県館山市に泊まった時、声張り上げて唄った歌がこの盆踊り歌でした。

同じ宿にいた旧制一高(現東大)の学生が気に入り、この歌を覚え、東京に戻ってからも唄いまくったことでやがて全国に広まったのだそうです。

日本各地から集まっていた一高生が、この歌の媒体となり流行らせたのですね。


「デカンショ」の意味は「どっこいしょ」から。丹波杜氏の出稼ぎが盛んだったことから、「出稼ぎしよう」。哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエル、の頭文字。などの諸説がありますが、特別な意味は無いようです。

戦後、篠山の盆踊りを篠山の伝統であるデカンショ節に統一しようと、1953年、各地区の盆踊りを統一し大会が開かれました。

その後、「デカンショ祭」として年々盛んになり、兵庫県下最大の民謡の祭へ。1970年大阪で開かれた万国博覧会では、400名の踊り子が出演したそうです。

と、歴史はこれくらいにして、この歌詞を眺めましょう。

囃子言葉は同じものの、時代の移り変わりの中で次々と歌詞が加わり、いま約300くらいあるのだそうです。

さらに、毎年公募で新作が集められ受賞作品が加えられています。


そんな中で古くからの歌詞の10選があります。

|闇伴鳥鎧害箸留遒(ヨイヨイ)花のお江戸で芝居する(ヨオーイ ヨオーイ デカンショ)

※以下囃子言葉は一緒

▲妊ンショデカンショで半年暮らす あとの半年寝て暮らす

C闇伴鳥核洩弔僚里如(孤霖辰┐携少年

っ闇伴鳥鎧咳なれど 霧の降るときゃ海の底

ゼ鬚楼め飲め茶釜でわかせ お神酒あがらぬ神はない

ζ腓量端鬚呂匹覆燭つくる おらが自慢の丹波杜氏

盆のお月さん丸こて丸い 丸てまんまるこてまだ丸い

┐錣燭靴稈闇箸両〃育ち 中に甘味も渋もある

雪がちらちら丹波の宿に 猪が飛び込む牡丹鍋

デカンショデカンショと唄うて廻れ 世界いずこの果てまでも

,鉢は都市と田舎の、地方から世界を視野に、というスケール大きい交流の歌です。
△脇くのと同じだけ休みましょう。ライフスタイルの話。
は東京に出なくとも、地方で文武を鍛えられるという教育の考え方。
い筬はスローフード。
高度な技術自慢。

などなど、深読みすると実にいい歌詞なのです。そしてこの歌に出てくる光景や歴史がしっかり保存されている。

そんなことから、この「デカンショ節」をテーマにしたストーリーは2017年日本遺産に認定されています。

先日、篠山にうかがうと、「デカンショ祭」の直前、街は「デカンショ」の言葉だらけ。横断幕が特産の黒豆畑の上に張られています。

この地で育った子どもたちには「デカンショ」は日常語なのでしょう。

「デカンショ節」の歌詞も曲ものびやかで、知的で、郷土自慢で好ましいのですが、なんといっても自分の住む土地に、皆が唄い踊れる「歌」があることがうらやましい。

地域がひとつになれるものがあることは、力になるなあと思いました。だからこそ、市名変更が実現しそうなのでしょうね。

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ちょっとしたこと 会いたい人 2018/07/08 10:43 pm

2015年秋のスローライフ・フォーラムは雲仙市でした。そこに参加していたジャガイモ農家の若者が、私のFacebookにコメントをくださいました。

彼はバンドもやっていて7月にまちおこしのコンサートを計画中。急に会いたくなってメッセージし、今回、彼の軽トラの助手席に乗る機会を得ました!

すると今度は彼が一度会いたかったお醤油屋さんに電話し、私が接着剤で2人が会うことに。

いい出会いとなりました。
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2015年11月1日開催のフォーラムです。
雲仙市のこれからについて、前日、4つの分科会を開催し、その結果を踏まえたシンポジウムが行われました。







この時、各地から雲仙市を訪れたスローライフ学会会員は、雲仙が北海道に次ぐジャガイモの産地えあること。

ジャガイモ畑が雲仙の独得の景観を作っていることなどを学んだのでした。

盛り土したこの赤い土と、独特の石垣が印象深かったものです。


今回、私が目にした荒木政勝さんの記事です。ジャガイモ農家が時々バンドマンになる。

さらに、彼の仲間は、長崎の調理師学校と連携し、棚田で米を育て、その米粉でお菓子を作り、地域の高齢者を訪ねているのでした。









千々石(ちじわ)という海辺の地区、ここで彼と待ち合わせ。そして荒木さんの軽トラックの助手席に乗せていただきました。

おそらくしばらくの間、助手席に人が乗った気配はありません。でも、今夜の酒宴用なのか、青々とした今採ったばかりのシシトウガラシがピカピカ光って転がっています。



荒木さんです。フォーラムの分科会では私の担当のところではなかったので、しっかり顔を覚えていないのですが、彼曰く
ー。

「懇親会で夜中まで飲んでたら、『いい加減にしなさい』って怒られました」とのこと。

確かに、シンポジウムの前日の飲み会で、「もう寝なさい」と私、言いまくったことは覚えています。その一群に彼はいたのですね。

今の活動をとつとつと話す荒木さん。髪は茶色で、しっぽ?のように伸びているところもある。いかにもそれがミュージシャンらしいのですが、活動は大まじめでしかも芯がある。

そこらの都会の軟弱な若者と違う、厚みを感じました。

7月末に開催の“#ミニフェス”のTシャツ。「これも農家のデザインですよ」と。

いろんな人やことが赤い絆で繋がっている、イラスト。彼らはこれを売って、フェス開催の費用を作っているのでした。

「みんなで地元を盛り上げたいから」いろんなことを考えているそうです。コンサートだけでなく、収穫体験や地元の売店なども。

ジャガ農家や水道工事屋さん、釣具屋さん等が、腕まくりなんだそうです。

地域にはそれぞれ、頑張っている人がいるなあ〜と実感します。

荒木さんが電話をしていると思ったら、相手は地元のお醤油屋さんの奥さんでした。

山中ひとみさん、荒木さんとFacebook友達ですが二人は会ったことはありません。

ちょうど「東京からこんな人が来ている」というのはいいきっかけ。荒木さんに連れられてお会いしまた。

「荒木さんとは、バケツの中に何か入れて置くなんて物々交換はしてましたけど、会うの初めて〜」と笑います。


ここでは、この土地で愛される、少し甘い味のお醤油や味噌を造っています。












「うちの工場古いから、撮らないで〜」とひとみさんはおっしゃいますが、お醤油のいい匂いが満ちた工場では、ちょうどお醤油を絞っているところ。

「絞ったカスは、栄養があり塩分もあるので牛さんが食べてくれるんです」と教えてくれました。



「とにかくみんな古いから」と言いながら、ひとみさんは「こんな小切手打つ機械もあるの。穴あけも」と見せてくれます。

道具博物館のようです。







何でもチャレンジのひとみさん、醤油の原料の大豆を育ててみようと、ご近所の方から大豆を分けていただいていました。

「このくらいの間隔で蒔いてね」とご近所さんが丁寧に教えています。





工場内には、大豆も麦も塩もすべて長崎県産の物を使ったという樽もありました。

なかで旨みが静かに育っているのでしょう。








こんな出会いの後、荒木さんのジャガイモ「デストロイヤー」で一杯をする楽しさ。いい夜になりました。

きっとまだまだ市内の人で、出会えばいい人が出会っていないのではという気がしました。

そんなきっかけに私がなれるなら大喜びです。よそ者が地元の人を繋ぐ。人と人が掛け算で化学反応を起こして、何かが始まる、変化が起きる。

そんな接着剤や導火線になれれば・・・。荒木さんと山中さんを見ながらそう思いました。

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ちょっとしたこと 2018/06/25 11:58 am

姉から96歳の母の具合いが悪いと連絡があり、実家に顔をだしてきました。

母本人はよろよろしているものの口だけは元気で、「お母さんに何があっても驚くんじゃないわよ」と脅します。

「最後の味になるかもしれないから持っていきな」と庭の梅のジャムを。

帰りに「庭の花を土産に持って行きな」「アジサイは水切りよ」と指示。

親分肌で仕切り上手は弱っても変わりません。首を伸ばして私を見送った母は、今週、検査です。
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母のことは何度か書いてきたのでだぶるかと思いますが。

一番昔の記憶は、抱かれておっぱいをしゃぶっている記憶です。私がそんな赤ちゃんの時のことを覚えているのではなく、覚えるくらいになってもおっぱいを求めていたのでしょう。要は甘ったれで、母も甘やかしていたのでしょうね。

次は母の背中におんぶされて、門で父を待っている時間もよく覚えてます。これはよくありました。サラリーマンの父が帰るころを見計らって、よく門の陰に隠れ「わっ!」と脅かしたりしました。いたずら好きの母でした。今思えば、何かおばあちゃんと喧嘩して、私を負ぶって外に出たのかもしれません。

とはいえ母はお嫁に行ったのではなく、父が母の家に入った形。名前だけは父の姓でしたが、母は婿取りをしたような状態で、自分の両親を看取っています。

私が小学生くらいまで、洗濯は井戸でしていました。木のタライに洗濯板。固形石鹸をごしごしつけて。夏は気持ちいいでしょうが、冬はどうやって我慢したのか。
冬の母の手は、しもやけやらあかぎれやら。この時代のお母さんはどこのうちでもそうだったでしょうね。私にはできない!

となりの家に洗濯機が来た時は、母はうらやましそうで、大きなものを持って行き、「絞らせて〜」とローラーの間にシーツなどはさみ、グルグルと取っ手を回すと絞れることに感動していました。そういう時は必ず、場つなぎで私も連れて行かれたものです。

当時はお肉は貴重品、そもそも千葉の田舎の肉屋に、牛肉などあったのか?たまに買う豚肉をフライパンで炒め、生姜醤油をかける。これが我が家でいう焼肉でした。一皿のキャベツの千切りの上にのったお肉を、みんなが少しずつ食べます。決まって「お母さんは、お肉はきらい。下の醤油の染みたキャベツが好き」と言って食べなかった母でした。

独身時代、目黒の“ドレメ”に通っていたので服を作るのが好き。ジャージャーと音を立てる編み機でセーターを編んだり、黒い鉄の足踏みミシンで服を作ったり。私と姉は母手製の服を着せられていました。そうそう、レース編みもずいぶん編んでは人にあげていましたね。

婦人会活動に目覚めて、会長職を引き受けて、「辞めろ」という父と喧嘩したことがありました。天ぷらを揚げながら、ポロポロ涙を流していました。母の涙はこの時しか見ていません。そもそも両親の喧嘩らしきものはこの時だけのように記憶しています。仲良しだったし、どちらかが我慢していたのでしょうね。

戦争の話では、「千葉のまちが空襲にあったとき、焼け野原の街を何キロも歩いて勤め先から帰って来たんだよ、死体も見たよ。」「アメリカ兵が来たら米びつに隠れろとおじいちゃんが言っていた」などと繰り返し話していました。母の家は米屋だったので、大きな茶箱のような入れ物に米があったのだそうです。そこに逃げ込めと、言われていたのでしょう。

私も姉も中学から私立のお嬢様学校に入れられました。母が出た学校に娘二人を入れたかったらしいのです。だから家計は大変で、私が中学生になると母は近くの親戚の薬局の店員さんを始めました。立ちっぱなしで疲れ、「横になるときが一番いいね〜」と布団に寝転がり、よく腰や肩にトクホンを貼らされました。



その後、私は不良になり(笑)、18歳で家出。その後、25歳くらいからまた実家と行き来し、今に至ります。父が亡くなった時も、家がもらい火で全焼した時も動じない母です。あの度胸と、いつも、まずにっこり笑う笑顔は見習いたいと、ここ数年は思ってきました。

昨夜、1年分くらいの梅ジャムを前に、夫と私は母の“すごさ”の話になりました。

火事の時です。母から電話があり、出た夫に、まずは「久しぶりね、二人とも元気?」から話が始まったのでした。しばらく普通の会話をした後、「あのね、今度来ても、泊まってもらうおうちがなくなっちゃったのよ」と。夫はここで、お母さん急にボケたのか?と思ったそうです。

「は?」「だから、もうおうちがないの」「どうしたんですか?」「燃えたの」「か、火事ですか〜〜〜〜!!」この話は、思い出すたびに私たちは大笑いし、さすがお母さんとほめたたえます。

母は、昔から悪い情報を伝えるときはなるべく自分で飲みこんで、淡々とするたちです。なので、この時もボケたのではなく、驚かせまいという気遣いだったのでした。なので、今回私が行っても「あんた、お姉ちゃんによばれたんでしょう」とにっこり笑い、淡々と。冒頭の話となります。

私が小学校の頃は、庭の花を切り、教室へ持って行かされました。電車通学だったので、花を持って行くのは結構大変だったのですが。持って行けば教室が輝いて、うれしかったものです。

今回も母の指示通り私が切った花を見て、満足そうに「今頃の花は青が多いね」と柔らかく笑っていました。


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ちょっとしたこと 「視点」展をみて 2018/06/11 12:35 pm

全国公募写真展2018「視点」。もう43年も続くリアリズム写真の展覧会です。

全国から寄せられた1185作品のなかから、入選入賞した174作品が展示されています。社会的な作品から、かわいい動物、美しい風景まで。

そこに日本の今があるようで、まるでドキュメンタリー映画を観たような、小説を読んだような深い満足感を得る数時間を過ごしました。都美術館で13日までです。
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写真の作品にはそれぞれ作者の思いがあって、また鑑賞する方にも好みがあります。
今回、落選した私から見れば、「すごいな〜」と思える作品ばかりなのですが。こんな写真を撮りたいな〜という作品をご紹介です。

「長いつきあい」というタイトルの作品。
作品ですからここに勝手に載せるわけにもいきません。図録に載っているものを遠くから撮ってこっそりご紹介です。

何を撮ってあるの?と問われれば、高齢夫婦のスナップが主の6枚組。

「1枚目」夫婦はどこかの公園か、参道などの大きな松の樹?の根元、縁石のようなところに座っています。二人ともコートを着ているから冬でしょうか。日も傾いて影が長く伸びています。旦那さんが発泡酒?のロング缶を持っています。缶ビールは冷たいから、奥さんが渡したのか、ピンクのタオルで巻いて持っています。横に寄り添う奥さんは両足を伸ばし、その間に荷物を置いて、落ちないように足首をあげている。足の荷物に気をつけながら、丁寧に柿ピー?を袋から手渡している「こぼさないでよ〜」。これまた旦那は落とさないように手の平を丸めて受け取っている。この後、彼は柿の種を数粒口に入れてかみ砕き、スーッと一口飲む。きっとその後奥さんも、ポンと数粒口に入れる。すると旦那が缶をぬっと渡す。ロング缶を飲みきるまで、寒くても、つまみはこれだけでも、美味しい時間のはずです。

「2枚目」表情の固まった旦那さんと、眉毛をはっきり描いた奥さんが、どこかの神社から帰ろうとしています。両者ともステッキを持って。奥さんの足の開き方から、スイスイ歩けない様子がうかがえます。旦那は手を引いてやるでもなく、片手はポケット。首にはカバーにしっかり入ったカメラ。この参拝で、彼が彼女を撮るなんてことがあったのでしょうか?と一瞬思うのだけれど・・。きっとこの夫婦にはこの距離感がいいのでしょう。少し離れてお互いの気配を感じながらのっそりのっそり歩く。いきなり振り向いて、「おい、そこに立て」などと旦那がつぶやき、奥さんもコトリとも笑わないでカメラに納まるのかもしれません。本当に仲が悪かったら、一緒に出掛けることもないでしょう。夕飯時、美味いまずいなど会話の無いままテレビをみて、「寝る」と言って彼は布団に入る。そういう暮らしをずっと続けているように思えます。それが二人にとっていい感じなのですから。

「3枚目」どこかのイベント会場か?壁面緑化に黄色いビオラが使われている壁を背に、コート姿でベンチに座った夫婦が食事中です。屋台で買ったお好み焼きか?ピザか?ひとつのプラ容器から二人がお箸を使って食べています。奥さんはブランド品の偽物バック、髪の生え際の毛染めが薄くなってきています。夢中で食いちぎっている旦那は、紺色の野球帽とジャンパー。雨上がりなのか、2人は傘をベンチに立てかけています。奥さんは骨の数の多い少し高級傘、旦那は白いビニール傘。奥さんの口元のしわと、旦那の目元のしわが何ともいい味です。けっこう激しい喧嘩をしてきたのかもしれません。今もしているのかもしれません。でも「あんた残り食べなよ」「お前にやるよ」なんて言葉が聞こえそうです。

「4枚目」奈良東大寺の山門横?のように思えるのですが、ベンガラ色に塗られた壁を背に何かを夫婦が見上げています。いかにも久しぶりの旅行という感じ。眼鏡に帽子、黒いショルダーバックの旦那さんは、ループタイなどしそうなお人柄です。奥さんはツーピースなど着て、少し重いけれど革のバックを下げてきました。秋口でしょうか、奥さんの薄手の半そでの服は着やすそう「新幹線の冷房で膝が冷えないようにすその長い服にしたのよ」かしら。何を見ているのでしょう。東大寺の大屋根を見上げているのしょうか。「大きいね〜」「ああ、でかいなあ」これから大仏に参拝なのか、旦那はワイシャツの襟を止め直しています。素直に見上げるこの夫婦に幸あれと思います。

「5枚目」高齢者夫婦が住んでいるだろう家に干されている洗濯物の写真です。画面の3分の1を占めているのはパイル地のピンク色のシーツ。そして、干してあるのはLLサイズくらいの男物の股引。肌着。ホカホカ部厚い女物靴下。いずれもずいぶん着ているのでゴムが伸びているのか、サイズが大きいのか、ハンガーにかけてさらに洗濯ばさみで止めてあります。洗濯物の下には、発泡スチロールに植わったセダム。つつましく暮らしている、夫婦の姿が見えてきます。この洗濯物の乾く頃、「母さん、夕飯は昨日の鍋の残りでいいからよ」「そうだね、じゃあうどん玉でも入れようかね」なんて会話があるのでしょう。

「6枚目」繋いだ手のアップ。男性は素手で、女性は手袋で。男性の右手の薬指に、女性の左手の人差し指がちょいと絡んでいます。ちゃんとつなぐわけでなく、さらりと触れ合う手と手。少しの温もりを感じているのでしょう。女性の手袋の指先にできた毛玉が、生活感を伝えてくれます。


こうして6枚を眺めると、「人生の楽園」風でもなく、もちろんお金持ち風でもなく、普通にそれぞれに長いつきあいをしている夫婦のほどほどの幸せがあぶりだされてきます。わが夫婦も暮らし始めて41年、長いつきあいになりました。不愛想でも、貧乏でも、おなかが出ても、しわだらけでも・・・・まあまあの幸せをかみしめたいと思います。

写真ていいなあ、6枚の写真から本当にそう思いました。

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ちょっとしたこと 思い出もの 2018/05/20 9:03 pm

「これってあの時のものだな〜」ってもの、身近にありますよね。

30年近く前、静岡県下1市7町で行った地域塾用に買った、ミニリュック。

25年位前、掛川市で行ったまちづくり塾で訪ねた牧場の、宣伝マグカップ。

12年前SNS投稿サイトの編集長をしていた頃、北海道松前の地域ライターを訪ね、求めたシャモジ。

懐かしいだけでなく、今も現役で使っているものばかり。捨てられません!

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30年使っているリュックは、静岡の呉服町商店街のハンドバック屋さんで買った安いものです。

化学繊維でできた小型。ファスナーが少し怪しくて、ここ数年は端を安全ピンで止めていますが、今もスーパーに行くにはこのリュック。

新宿御苑に行くのもこのリュック。

いま、写真がないのここにお見せできませんが、おそらくあと10年は使えるでしょう。



このマグカップは、毎朝使っています。牛の絵がかわいいし、取っ手が私の手にしっくりくる。

だから、ず〜〜〜〜〜〜っと使っているわけです。

割れない、好きだから割らない、大事に使う。それで25年位です。

とても感じのいい、ご夫婦がやっている牧場。ソフトクリームも美味しかった。“しばちゃん”元気かな〜。あの牧場まだあるのかな〜?

「36景学びのバス」という、見学バスみたいなもので月に一回掛川市内のいいところを訪ねていた時に寄ったのでした。


「日刊ブログ新聞 ぶらっと!」というSNS利用の日刊紙のようなものの編集長をやっていました。

各県に地域ライターを何人かずつお願いして、日々、地域のことをブログ発信していただいていました。

そのお一人、松前町の飯田君、今もお元気で私とFacebook友達でいてくれています。

彼とは、そもそも、「半島ツーリズム大学」というのを松前でやった時、私のワークショップに参加してくれたのがきっかけで知り合いました。

その頃は男の子という雰囲気を残していたけれど、今や町会議員さんです。

確か、青森の地域ライターさんを訪ね、それから松前まで回ったのでした。

松前城を案内してくださって、(彼は今もここのガイドさんをしています)、お土産に「松前城」と書かれたシャモジを買ったのでした。

正確には木製の炒め物用ヘラですね。チャーハンや野菜炒めに活躍しています。文字はすっかり滲んでいますが、使うたびになんとなく松前を思い出すものです。


私の古ーい携帯についているストラップ。「瑞龍寺」とあります。

革製で、裏には火ふせの神様が型押ししてある。単なるお土産物風ですが靴ベラにもなるので、実に便利。丈夫で使い込んでいるうちにいい色にもなってきました。

横のペンダントは実は金属製のジグゾーパズルの一片がアクセサリー―になっているもの。これがないと、パズルが完成しないという、不思議な一片です。

いずれも10年くらい前の物かな〜。富山県高岡市へ、スローライフ逸品作りの研究会・ワークショップで通っていたころのものです。

あの勉強会で、どれほどの品物が発案されたか!いま、どのくらい残っているかなあ〜。

ま、残っていなくとも、研究し続けたメンバーの頭にはいろいろなアイディアや経験が納まったはずです。

これはまだ新しいもの。

2年前、長野県飯山市に通い始めたころ、生まれて初めて「かまくら」の中で、鍋をつついて一杯をしました。

こちらの防寒が手薄で、コートだけでした。熱燗を飲んでも追いつかない寒さ。

するとご一緒だった地元の方が、ゴソゴソと出してくれた。「女房がこんなの作るのが好きなんです。使ってください」と帽子とマフラーを出された。

真っ白な雪に囲まれた中で映えた水色のお手製帽子。マフラーとともに、この冬にも使わせていただきました。

あったかです。

いろいろな土地に行くたびに、何かしらの物が増え、「思い出もの」は増えていきます。

断捨離なんて流行していますが、こういう物は一緒に生きている感じで処分はできません。

100歳になった時「これは確かね〜、あそこでね〜」と語れるおばあちゃんでいましょう。

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ちょっとしたこと まだこれから 2018/05/14 2:40 pm

96歳の実家の母が尻もち、お見舞いの電話をすると「お母さんもそろそろ歳ね」と笑い声。

同じ年齢のドナルド・キーン氏は新聞紙上で、100歳を超えて1人暮らしの友人を讃え「101歳に負けないぞ」と。

昨日読んだ小冊子には、江戸時代の土木技術者・大畑才蔵の話。彼は66歳にして人生最大数10キロに及ぶ用水路工事に取り組んでいます。

まだまだ私などこれから、ということですね。

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家事現役の母はそれなりに弱ってきています。なので、今回も踏ん張れずに転んだのだそうでした。

姉から聞くと、転んだまま起き上がれな自分にショックだったようです。首も腰も手術し、脳梗塞もしたんだからしょうがない。とはなかなか思えない性格です。

その母に母の日プレゼントで、今回は瀬戸内寂聴の『いのち』と佐藤愛子の『老い力』の2冊を送ったのでした。

転んだせいでしょうか、「まあ、お母さんもこういうのを読んで覚悟していかなくちゃね」と母は語ります。

少々可愛そうに思ったら「ま、あんたもじきにこうなるわよ」と笑う。「お母さんね、気に入らない色のファンデーションがあるから、今度来たらあげるわよ」とも。

この母の前では、私はひれ伏すしかありません。私など未だに子ども・ガキなのでした。

キーンさんの話に出てくるアメリカの101歳おばあちゃんは、実に知的好奇心に富む美人らしい。

毎日、新聞を隅々まで読み、おしゃれも欠かさない、香水も、だそうです。

キーン氏は彼女との会話を楽しみ、負けちゃいけないと思うそうです。100歳にして一人で、知的。理想の姿ですね。

しかし、昔もすごい人はいました。人生50年といわれた時代に、66歳で大工事を任された大畑才蔵にも驚きます。

皆が隠居どころかなくなる年齢にして燃える男、カッコいいですね。現場に立ち、68歳で100日の工期で休んだのは1日だけとか。

74歳で現役を引き、79歳で亡くなりますが、彼のおかげで水に困っていた土地は紀の川の水を引き、広大な水田になったのでした。

昔の偉人でいえば、私の父の実家近く、佐原に伊能忠孝が居ます。九十九里出身、佐原の酒屋に婿養子に入り、49歳で隠居。50歳から新たな人生を歩みました。

55歳から71歳まで10回にわたり日本中に測量の旅に出かけ、ひたすら歩き地図を作った人です。

以前佐原で、記念館を訪れた時、千葉県人として誇らしく思いました。

大畑も伊能も、現代に置き換えれば80〜90歳代くらいで世界に誇る偉業を成し遂げたということになるでしょう。

この方々と比べるにはおこがましいですが、私などまだまだこれから。「で、どうするの今後?」という段階なのですね。

はい、頑張りましょう。

母の尻もちから、いろいろ学んだ母の日でした。そういう意味でお母さんありがとう、です。

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ちょっとしたこと 荻窪商店街ぶらり 2018/04/23 11:25 am

静岡市呉服町で“一店逸品運動”をしてから、もうどれほどの商店街とお付き合いをしたことでしょう。仕事がらというよりも、とにかく商店街好きの私です。

今回は東京・荻窪の商店街を歩きました。駅付近にいくつもの商店街があります。店の数よりも、新旧が、品の良しあしが混在していることがおもしろい。

しかも住んでいる人が楽しんでいる。それが大事と思いました。
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我が家から少し丸ノ内線に乗ると荻窪、JRなら中央線です。ベッドタウンというには活気があり開けている、学生さんも多い、ま、ビジネス街ではないけれどたくさんの人が居る街です。

駅から南へ北へ、いくつかの小さな商店街がある。先日いただいたあんころ餅がかなり美味しかったので、その店がある教会通りにまずは行きました。

この商店街の顔というべき蜂蜜屋さんです。65種類、10各国の蜂蜜がある。もともと養蜂をしていた老舗、量り売りもしています。

こういう専門店がひとつでもあると、その商店街の重みが出ますね。

蜂蜜レモンのようなさわやかな飲み物を、試飲させていただきました。


洋食屋さん、ここのポップがおもしろい。

メニューと値段だけじゃなくて「マタニティマークをお持ちなら10%割引」とか「名古屋出身の店長がモーニング始めました。ドリンクにトースト・ゆで卵つけます」なんてある。

マタニティ割引は他のところでもどんどんやるべきだなあ〜。

モーニング本場の出身なら、どうしてもやりたくなっちゃったんだろうなあ〜。

なんて、思いながら、今度ここに入ってみようと決めます。

道に車は入ってきませんが、とにかく自転車が多い。地元の人が行ったり来たり。その合間を縫って、私のような来訪者がウロウロしている。

日常と晴れが混じっています。









やややや!すごいクリーニング屋さんがありました。

建物自体が“世間遺産”的存在。いつごろからあるのでしょうか、なかではおじいちゃんがせっせと働いていて、おばあちゃんと会話している。

昭和のドラマのワンシーンになりそうな世界。下調べなどしないでポンと来るのが好きな私です。

この「洗濯屋さん」は調べれば、そうとう取材されたり、写真に撮られていたりするはずです。

なのに、サッシではない木製の窓の向こうで、淡々と仕事をしている。この商店街が浮かれてヒラヒラと飛んでいかないように文鎮の役割をしているようでした。

8畳間くらいかな〜、もっと小さいかな〜貸ギャラリーです。たった1日でも貸してくれる。

確かに安くはありませんが、お仲間と数日借りて壁面をシャアして写真展もいいなあ。

こういうところに、自分のスペースを持てるというのがうれしい。貼り紙がおしゃれです。



おしゃれ空間があったと思ったら、商店街から横に入るとすぐに庶民の生活空間。

運動靴が、まるでオブジェのように乾かしてあります。

こういう脇道に入り込んで、暮らしのお邪魔にならない範囲でウロウロするのも楽しい。




ありました、ありました、和菓子屋さん「榛名屋」。おにさん一人で店番のいい感じ。

お目あてのあんころ餅は、一見、ぼた餅なのですが、なかはお米でなくて草餅が入っているという優れもの。とにかくあんこが美味しいお店。

次から次へと、地元のおばちゃんたちが買っていきます。おにぎりもあれば、海苔巻きもある、ヒジキの煮物もある。このままお店ごと持って帰りたいくらい。

ショーケースひとつで勝負しているのもいさぎ良い。


ここんところお疲れモードとの夫と店頭で念入りに打ち合わせして、今日は柏餅にしました。

買って、即、ここで食べます。というと、おにさんがお皿にのせてくれました。

通りを歩く人を眺めながら食べる私のは味噌柏、美味しい〜。

ショーケースには、今どき珍しいちゃんとした生け花が飾られています。そして付箋に、生けてあるものの名前が。「うりはだ楓、カーネーション」などとメモしてある。

聞けば「お客さんから聞かれるんですが、すぐ忘れちゃうんで」とおにいさん。あんころ餅買いながら花の名を聞く、聞かれたら応えられるようにメモしておく。

こんな関係がこの商店街にはあるんですね。


さて、荻窪駅に戻り、南側に抜けるために別の商店街を行くと、こんな看板が。

そうそう、ほんと、文化です。と言いながらこのまま入りたくなります。アツアツの餃子にかぶりつき、ビールをくいっと。

これは必ずや、実行しに来ないと。


学生さんも多い街です、古本屋さんも目立ちます。ここは古レコード屋さん。レ、レコードですぞ。

どんなのがあるんだろう?買っても聞けないけど、見たい。ジャケットだけでも、昔の気分に浸りたい。

マニアックな若者と、私のようなシニアも来るのではないでしょうか。




駅南口の商店街のパン屋さん。テラスでバケットサンドなども食べられます。私は暑いのでジンジャエール。

なんでこの店にしたのか?

立て看板に「ドリンクのみのご利用、ワンちゃん同伴大歓迎です」とあったから。気持ちのいい店ですね。

さて、ここまで書くと、荻窪大好き、商店街絶賛で終わるのですが。ふと考えます。

私が通う、地方のまちにはこんな商店街はありません。昔、商店街だったらしき遺跡のような通りは残る。

もとお店をやっていただろうガラス戸のなかの土間は、自転車やシルバーカー、応接セットが置かれたり、君子ランやシクラメンが飾られたり。

ポツンとあるお店も息絶え絶えだったり。そういうお店すらなくなっているところもあります。

人が東京に集中し、地方の交通は車が中心になり、大規模店ができて、などなど商店街が滅んでしまったのには様々な理由があるでしょう。

お店を覗きながら、いろいろ会話する、歩き回るこの楽しみは地方のまちではもう体験できないのでしょうか?

ならば、せめて、まだ残っている頑張っている数軒の個店を住んでいる人が支えてあげたいものです。わが故郷には店らしい店が全くない、なんてことでいいのでしょうか。

荻窪にはたくさんの学生さん、若い夫婦、子どもたちが居ました。この人たちが古里に帰った時に、小さいながらも商店街や専門のお店を大事にする、楽しめる人になってもらえればと思います。

人口の多い東京は、そういう見本事例として、頑張る個店や商店街を買い支え、文化遺産としてもにぎわう商店街というものを維持しなくてはいけないと思います。


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ちょっとしたこと お店をやりたい:その3 2018/04/16 1:31 pm

私、スローライフをテーマにしたお店をやりたいと騒いでおりますが、今日はその場所のお話。

新宿四谷で普通の貸店舗を借りるには、ビックリするほどの家賃がかかります。

それにどこかの空き家を、事務所も兼ねた古民家カフェのような設えにできないものかと思うと、そもそもそういう物件がない。

家賃が安く空き家がいっぱいの地方と、東京のこの差は何なのでしょう?
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東京にも空き家はたくさんありますが、ごく普通の一戸建てで風情がありません。

または持ち主が放ってあるのか荒れていたり、または本当に崩れかけていたり。田舎の立派な空き家を見ている私には、使いたくないような家ばかり。

ならば普通の貸店舗を正々堂々とお金を積んで借りなさい、ということになりますが、これまた笑ってしまうくらい高い。

月々数十万を払うとならば、そこでよっぽどお金を稼がないとやっていけないということになります。

かつて、私が24歳の頃、都内のマンションに住んでいて7万7千円の家賃を払っていました。当時のその値段ですから結構広く、女友達と共有していました。

それが、東京を出て静岡県に移動し、ある海辺の町に住んだとき、同じ広さが7000円で借りられました。10分の1以下です。

しかもそのアパートは、窓を開ければこんもり緑の茂った山が見え、一歩外に出れば大きな富士山を仰げる。水道は柿田川湧水からの冷たい美味しい水。

いったい私は何のために働いてきたのか、スモッグ一杯の都会で家賃を払うだけのために徹夜してきたのか、と、ショックでした。

当時は周囲から「なぜ、東京からこんな町に来たのか。もったいない」といわれました。

皆が何とか田舎から東京に出たい、東京に追いつきたいと思っていた時代です。私の逆流は不思議だったでしょう。

その数年後、、静岡の山地の川のほとりに、古い農家の空き家を見つけ住んだこともあります。この時は、広い庭付きで10,000円。

畑もやりました、釣もしました、シェパードも飼いました。近くの人が、猟で射止めたキジや猪を届けてくれました。お風呂に入ろうとすると沢蟹がいる、そんな暮らしでした。

今でこそ、仕事さえあれば、田舎に住みたいという人は多いものですが、当時はまだ珍しかった。

それをさんざんやってきて、今やまた東京に住み、さらに東京で店までやりたいと思っている。これもまた、逆流なのかもしれません。

こんな悩みを打ち明けると、「野口さんごと田舎にひっこして、そのお店のプランをわが町でやってよ」という人が何人か出てきました。

でもそうじゃダメで、ここは譲れない。こんなにひどい東京にこそ、少しでも良いもの良いことの細胞を移植しなくてはと思うわけです。

地方のむら・まちと繋いで、少しでも東京に良い血を流したいのです。東京に住む者が真剣に東京のことを考えないと、日本が危ないから。

店舗を借りる場合、家賃6ヶ月分の敷金と、2カ月分の手数料。数十万の家賃×8倍、プラス内装・什器備品、きゃ〜〜〜〜〜!

田舎では、日曜大工以上の技術者である友達たちが、内装ぐらいお茶の子さいさいで助けてくれるでしょう。物もいろいろ集まってくるでしょう。

東京では、総てがお金ということになりがちです。今から、こうして騒いで仲間を募るしかありません。

では騒ぎましょう!

「私のうち、古いけど使っていいよ」なんて人が現れないかな〜。

以下、以前のブログです。
「お店をやりたい」
http://noguchi-tomoko.com/modules/yutoriaruki/details.php?blog_id=426&date=201708


「お店をやりたい:その2」
http://noguchi-tomoko.com/modules/yutoriaruki/details.php?blog_id=431&date=201709


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連絡先

野口 智子 のぐち ともこ
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局
ゆとり研究所

TEL 090-7433−1741
E-Mail yutori@noguchi-tomoko.com

NPOスローライフ・ジャパン
〒160-0002 東京都新宿区四谷坂町9−4 リカビル301
TEL 03-5312-4141 FAX 03-5312-4554
E-Mail slowlifej@nifty.com


略歴

<野口智子(のぐちともこ)>
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局長
千葉市生まれ。東京でコピーライター、プランナーを経験。1977年静岡県に移り企画・編集プロダクション設立。
1992年ゆとり研究所を開きコンサルタント業務を開始。
ライフスタイルの提案、「一店逸品運動」による商店街の活性化、時間消費型観光おこし、人材育成などの分野で活動。
2000年からスローライフ運動を開始、2003年スローライフ・ジャパンを設立、現在、事務局長・副理事長。
2006年から活動拠点と自宅を東京へ。現在はスローツーリズムの提案、商品開発、地域観光の育成、都市と田舎の交流、移住・定住プロジェクト、“食”をテーマにしたまちおこし、などに力を入れている。住民参加の独自の楽しいワークショップが得意。
現在、地域力創造アドバイザー(総務省)、地域再生マネージャー(ふるさと財団)、国土審議会半島振興部会委員。