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ちょっとしたこと 会いたい人 2018/07/08 10:43 pm

2015年秋のスローライフ・フォーラムは雲仙市でした。そこに参加していたジャガイモ農家の若者が、私のFacebookにコメントをくださいました。

彼はバンドもやっていて7月にまちおこしのコンサートを計画中。急に会いたくなってメッセージし、今回、彼の軽トラの助手席に乗る機会を得ました!

すると今度は彼が一度会いたかったお醤油屋さんに電話し、私が接着剤で2人が会うことに。

いい出会いとなりました。
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2015年11月1日開催のフォーラムです。
雲仙市のこれからについて、前日、4つの分科会を開催し、その結果を踏まえたシンポジウムが行われました。







この時、各地から雲仙市を訪れたスローライフ学会会員は、雲仙が北海道に次ぐジャガイモの産地えあること。

ジャガイモ畑が雲仙の独得の景観を作っていることなどを学んだのでした。

盛り土したこの赤い土と、独特の石垣が印象深かったものです。


今回、私が目にした荒木政勝さんの記事です。ジャガイモ農家が時々バンドマンになる。

さらに、彼の仲間は、長崎の調理師学校と連携し、棚田で米を育て、その米粉でお菓子を作り、地域の高齢者を訪ねているのでした。









千々石(ちじわ)という海辺の地区、ここで彼と待ち合わせ。そして荒木さんの軽トラックの助手席に乗せていただきました。

おそらくしばらくの間、助手席に人が乗った気配はありません。でも、今夜の酒宴用なのか、青々とした今採ったばかりのシシトウガラシがピカピカ光って転がっています。



荒木さんです。フォーラムの分科会では私の担当のところではなかったので、しっかり顔を覚えていないのですが、彼曰く
ー。

「懇親会で夜中まで飲んでたら、『いい加減にしなさい』って怒られました」とのこと。

確かに、シンポジウムの前日の飲み会で、「もう寝なさい」と私、言いまくったことは覚えています。その一群に彼はいたのですね。

今の活動をとつとつと話す荒木さん。髪は茶色で、しっぽ?のように伸びているところもある。いかにもそれがミュージシャンらしいのですが、活動は大まじめでしかも芯がある。

そこらの都会の軟弱な若者と違う、厚みを感じました。

7月末に開催の“#ミニフェス”のTシャツ。「これも農家のデザインですよ」と。

いろんな人やことが赤い絆で繋がっている、イラスト。彼らはこれを売って、フェス開催の費用を作っているのでした。

「みんなで地元を盛り上げたいから」いろんなことを考えているそうです。コンサートだけでなく、収穫体験や地元の売店なども。

ジャガ農家や水道工事屋さん、釣具屋さん等が、腕まくりなんだそうです。

地域にはそれぞれ、頑張っている人がいるなあ〜と実感します。

荒木さんが電話をしていると思ったら、相手は地元のお醤油屋さんの奥さんでした。

山中ひとみさん、荒木さんとFacebook友達ですが二人は会ったことはありません。

ちょうど「東京からこんな人が来ている」というのはいいきっかけ。荒木さんに連れられてお会いしまた。

「荒木さんとは、バケツの中に何か入れて置くなんて物々交換はしてましたけど、会うの初めて〜」と笑います。


ここでは、この土地で愛される、少し甘い味のお醤油や味噌を造っています。












「うちの工場古いから、撮らないで〜」とひとみさんはおっしゃいますが、お醤油のいい匂いが満ちた工場では、ちょうどお醤油を絞っているところ。

「絞ったカスは、栄養があり塩分もあるので牛さんが食べてくれるんです」と教えてくれました。



「とにかくみんな古いから」と言いながら、ひとみさんは「こんな小切手打つ機械もあるの。穴あけも」と見せてくれます。

道具博物館のようです。







何でもチャレンジのひとみさん、醤油の原料の大豆を育ててみようと、ご近所の方から大豆を分けていただいていました。

「このくらいの間隔で蒔いてね」とご近所さんが丁寧に教えています。





工場内には、大豆も麦も塩もすべて長崎県産の物を使ったという樽もありました。

なかで旨みが静かに育っているのでしょう。








こんな出会いの後、荒木さんのジャガイモ「デストロイヤー」で一杯をする楽しさ。いい夜になりました。

きっとまだまだ市内の人で、出会えばいい人が出会っていないのではという気がしました。

そんなきっかけに私がなれるなら大喜びです。よそ者が地元の人を繋ぐ。人と人が掛け算で化学反応を起こして、何かが始まる、変化が起きる。

そんな接着剤や導火線になれれば・・・。荒木さんと山中さんを見ながらそう思いました。

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ちょっとしたこと 2018/06/25 11:58 am

姉から96歳の母の具合いが悪いと連絡があり、実家に顔をだしてきました。

母本人はよろよろしているものの口だけは元気で、「お母さんに何があっても驚くんじゃないわよ」と脅します。

「最後の味になるかもしれないから持っていきな」と庭の梅のジャムを。

帰りに「庭の花を土産に持って行きな」「アジサイは水切りよ」と指示。

親分肌で仕切り上手は弱っても変わりません。首を伸ばして私を見送った母は、今週、検査です。
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母のことは何度か書いてきたのでだぶるかと思いますが。

一番昔の記憶は、抱かれておっぱいをしゃぶっている記憶です。私がそんな赤ちゃんの時のことを覚えているのではなく、覚えるくらいになってもおっぱいを求めていたのでしょう。要は甘ったれで、母も甘やかしていたのでしょうね。

次は母の背中におんぶされて、門で父を待っている時間もよく覚えてます。これはよくありました。サラリーマンの父が帰るころを見計らって、よく門の陰に隠れ「わっ!」と脅かしたりしました。いたずら好きの母でした。今思えば、何かおばあちゃんと喧嘩して、私を負ぶって外に出たのかもしれません。

とはいえ母はお嫁に行ったのではなく、父が母の家に入った形。名前だけは父の姓でしたが、母は婿取りをしたような状態で、自分の両親を看取っています。

私が小学生くらいまで、洗濯は井戸でしていました。木のタライに洗濯板。固形石鹸をごしごしつけて。夏は気持ちいいでしょうが、冬はどうやって我慢したのか。
冬の母の手は、しもやけやらあかぎれやら。この時代のお母さんはどこのうちでもそうだったでしょうね。私にはできない!

となりの家に洗濯機が来た時は、母はうらやましそうで、大きなものを持って行き、「絞らせて〜」とローラーの間にシーツなどはさみ、グルグルと取っ手を回すと絞れることに感動していました。そういう時は必ず、場つなぎで私も連れて行かれたものです。

当時はお肉は貴重品、そもそも千葉の田舎の肉屋に、牛肉などあったのか?たまに買う豚肉をフライパンで炒め、生姜醤油をかける。これが我が家でいう焼肉でした。一皿のキャベツの千切りの上にのったお肉を、みんなが少しずつ食べます。決まって「お母さんは、お肉はきらい。下の醤油の染みたキャベツが好き」と言って食べなかった母でした。

独身時代、目黒の“ドレメ”に通っていたので服を作るのが好き。ジャージャーと音を立てる編み機でセーターを編んだり、黒い鉄の足踏みミシンで服を作ったり。私と姉は母手製の服を着せられていました。そうそう、レース編みもずいぶん編んでは人にあげていましたね。

婦人会活動に目覚めて、会長職を引き受けて、「辞めろ」という父と喧嘩したことがありました。天ぷらを揚げながら、ポロポロ涙を流していました。母の涙はこの時しか見ていません。そもそも両親の喧嘩らしきものはこの時だけのように記憶しています。仲良しだったし、どちらかが我慢していたのでしょうね。

戦争の話では、「千葉のまちが空襲にあったとき、焼け野原の街を何キロも歩いて勤め先から帰って来たんだよ、死体も見たよ。」「アメリカ兵が来たら米びつに隠れろとおじいちゃんが言っていた」などと繰り返し話していました。母の家は米屋だったので、大きな茶箱のような入れ物に米があったのだそうです。そこに逃げ込めと、言われていたのでしょう。

私も姉も中学から私立のお嬢様学校に入れられました。母が出た学校に娘二人を入れたかったらしいのです。だから家計は大変で、私が中学生になると母は近くの親戚の薬局の店員さんを始めました。立ちっぱなしで疲れ、「横になるときが一番いいね〜」と布団に寝転がり、よく腰や肩にトクホンを貼らされました。



その後、私は不良になり(笑)、18歳で家出。その後、25歳くらいからまた実家と行き来し、今に至ります。父が亡くなった時も、家がもらい火で全焼した時も動じない母です。あの度胸と、いつも、まずにっこり笑う笑顔は見習いたいと、ここ数年は思ってきました。

昨夜、1年分くらいの梅ジャムを前に、夫と私は母の“すごさ”の話になりました。

火事の時です。母から電話があり、出た夫に、まずは「久しぶりね、二人とも元気?」から話が始まったのでした。しばらく普通の会話をした後、「あのね、今度来ても、泊まってもらうおうちがなくなっちゃったのよ」と。夫はここで、お母さん急にボケたのか?と思ったそうです。

「は?」「だから、もうおうちがないの」「どうしたんですか?」「燃えたの」「か、火事ですか〜〜〜〜!!」この話は、思い出すたびに私たちは大笑いし、さすがお母さんとほめたたえます。

母は、昔から悪い情報を伝えるときはなるべく自分で飲みこんで、淡々とするたちです。なので、この時もボケたのではなく、驚かせまいという気遣いだったのでした。なので、今回私が行っても「あんた、お姉ちゃんによばれたんでしょう」とにっこり笑い、淡々と。冒頭の話となります。

私が小学校の頃は、庭の花を切り、教室へ持って行かされました。電車通学だったので、花を持って行くのは結構大変だったのですが。持って行けば教室が輝いて、うれしかったものです。

今回も母の指示通り私が切った花を見て、満足そうに「今頃の花は青が多いね」と柔らかく笑っていました。


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ちょっとしたこと 「視点」展をみて 2018/06/11 12:35 pm

全国公募写真展2018「視点」。もう43年も続くリアリズム写真の展覧会です。

全国から寄せられた1185作品のなかから、入選入賞した174作品が展示されています。社会的な作品から、かわいい動物、美しい風景まで。

そこに日本の今があるようで、まるでドキュメンタリー映画を観たような、小説を読んだような深い満足感を得る数時間を過ごしました。都美術館で13日までです。
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写真の作品にはそれぞれ作者の思いがあって、また鑑賞する方にも好みがあります。
今回、落選した私から見れば、「すごいな〜」と思える作品ばかりなのですが。こんな写真を撮りたいな〜という作品をご紹介です。

「長いつきあい」というタイトルの作品。
作品ですからここに勝手に載せるわけにもいきません。図録に載っているものを遠くから撮ってこっそりご紹介です。

何を撮ってあるの?と問われれば、高齢夫婦のスナップが主の6枚組。

「1枚目」夫婦はどこかの公園か、参道などの大きな松の樹?の根元、縁石のようなところに座っています。二人ともコートを着ているから冬でしょうか。日も傾いて影が長く伸びています。旦那さんが発泡酒?のロング缶を持っています。缶ビールは冷たいから、奥さんが渡したのか、ピンクのタオルで巻いて持っています。横に寄り添う奥さんは両足を伸ばし、その間に荷物を置いて、落ちないように足首をあげている。足の荷物に気をつけながら、丁寧に柿ピー?を袋から手渡している「こぼさないでよ〜」。これまた旦那は落とさないように手の平を丸めて受け取っている。この後、彼は柿の種を数粒口に入れてかみ砕き、スーッと一口飲む。きっとその後奥さんも、ポンと数粒口に入れる。すると旦那が缶をぬっと渡す。ロング缶を飲みきるまで、寒くても、つまみはこれだけでも、美味しい時間のはずです。

「2枚目」表情の固まった旦那さんと、眉毛をはっきり描いた奥さんが、どこかの神社から帰ろうとしています。両者ともステッキを持って。奥さんの足の開き方から、スイスイ歩けない様子がうかがえます。旦那は手を引いてやるでもなく、片手はポケット。首にはカバーにしっかり入ったカメラ。この参拝で、彼が彼女を撮るなんてことがあったのでしょうか?と一瞬思うのだけれど・・。きっとこの夫婦にはこの距離感がいいのでしょう。少し離れてお互いの気配を感じながらのっそりのっそり歩く。いきなり振り向いて、「おい、そこに立て」などと旦那がつぶやき、奥さんもコトリとも笑わないでカメラに納まるのかもしれません。本当に仲が悪かったら、一緒に出掛けることもないでしょう。夕飯時、美味いまずいなど会話の無いままテレビをみて、「寝る」と言って彼は布団に入る。そういう暮らしをずっと続けているように思えます。それが二人にとっていい感じなのですから。

「3枚目」どこかのイベント会場か?壁面緑化に黄色いビオラが使われている壁を背に、コート姿でベンチに座った夫婦が食事中です。屋台で買ったお好み焼きか?ピザか?ひとつのプラ容器から二人がお箸を使って食べています。奥さんはブランド品の偽物バック、髪の生え際の毛染めが薄くなってきています。夢中で食いちぎっている旦那は、紺色の野球帽とジャンパー。雨上がりなのか、2人は傘をベンチに立てかけています。奥さんは骨の数の多い少し高級傘、旦那は白いビニール傘。奥さんの口元のしわと、旦那の目元のしわが何ともいい味です。けっこう激しい喧嘩をしてきたのかもしれません。今もしているのかもしれません。でも「あんた残り食べなよ」「お前にやるよ」なんて言葉が聞こえそうです。

「4枚目」奈良東大寺の山門横?のように思えるのですが、ベンガラ色に塗られた壁を背に何かを夫婦が見上げています。いかにも久しぶりの旅行という感じ。眼鏡に帽子、黒いショルダーバックの旦那さんは、ループタイなどしそうなお人柄です。奥さんはツーピースなど着て、少し重いけれど革のバックを下げてきました。秋口でしょうか、奥さんの薄手の半そでの服は着やすそう「新幹線の冷房で膝が冷えないようにすその長い服にしたのよ」かしら。何を見ているのでしょう。東大寺の大屋根を見上げているのしょうか。「大きいね〜」「ああ、でかいなあ」これから大仏に参拝なのか、旦那はワイシャツの襟を止め直しています。素直に見上げるこの夫婦に幸あれと思います。

「5枚目」高齢者夫婦が住んでいるだろう家に干されている洗濯物の写真です。画面の3分の1を占めているのはパイル地のピンク色のシーツ。そして、干してあるのはLLサイズくらいの男物の股引。肌着。ホカホカ部厚い女物靴下。いずれもずいぶん着ているのでゴムが伸びているのか、サイズが大きいのか、ハンガーにかけてさらに洗濯ばさみで止めてあります。洗濯物の下には、発泡スチロールに植わったセダム。つつましく暮らしている、夫婦の姿が見えてきます。この洗濯物の乾く頃、「母さん、夕飯は昨日の鍋の残りでいいからよ」「そうだね、じゃあうどん玉でも入れようかね」なんて会話があるのでしょう。

「6枚目」繋いだ手のアップ。男性は素手で、女性は手袋で。男性の右手の薬指に、女性の左手の人差し指がちょいと絡んでいます。ちゃんとつなぐわけでなく、さらりと触れ合う手と手。少しの温もりを感じているのでしょう。女性の手袋の指先にできた毛玉が、生活感を伝えてくれます。


こうして6枚を眺めると、「人生の楽園」風でもなく、もちろんお金持ち風でもなく、普通にそれぞれに長いつきあいをしている夫婦のほどほどの幸せがあぶりだされてきます。わが夫婦も暮らし始めて41年、長いつきあいになりました。不愛想でも、貧乏でも、おなかが出ても、しわだらけでも・・・・まあまあの幸せをかみしめたいと思います。

写真ていいなあ、6枚の写真から本当にそう思いました。

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ちょっとしたこと 思い出もの 2018/05/20 9:03 pm

「これってあの時のものだな〜」ってもの、身近にありますよね。

30年近く前、静岡県下1市7町で行った地域塾用に買った、ミニリュック。

25年位前、掛川市で行ったまちづくり塾で訪ねた牧場の、宣伝マグカップ。

12年前SNS投稿サイトの編集長をしていた頃、北海道松前の地域ライターを訪ね、求めたシャモジ。

懐かしいだけでなく、今も現役で使っているものばかり。捨てられません!

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30年使っているリュックは、静岡の呉服町商店街のハンドバック屋さんで買った安いものです。

化学繊維でできた小型。ファスナーが少し怪しくて、ここ数年は端を安全ピンで止めていますが、今もスーパーに行くにはこのリュック。

新宿御苑に行くのもこのリュック。

いま、写真がないのここにお見せできませんが、おそらくあと10年は使えるでしょう。



このマグカップは、毎朝使っています。牛の絵がかわいいし、取っ手が私の手にしっくりくる。

だから、ず〜〜〜〜〜〜っと使っているわけです。

割れない、好きだから割らない、大事に使う。それで25年位です。

とても感じのいい、ご夫婦がやっている牧場。ソフトクリームも美味しかった。“しばちゃん”元気かな〜。あの牧場まだあるのかな〜?

「36景学びのバス」という、見学バスみたいなもので月に一回掛川市内のいいところを訪ねていた時に寄ったのでした。


「日刊ブログ新聞 ぶらっと!」というSNS利用の日刊紙のようなものの編集長をやっていました。

各県に地域ライターを何人かずつお願いして、日々、地域のことをブログ発信していただいていました。

そのお一人、松前町の飯田君、今もお元気で私とFacebook友達でいてくれています。

彼とは、そもそも、「半島ツーリズム大学」というのを松前でやった時、私のワークショップに参加してくれたのがきっかけで知り合いました。

その頃は男の子という雰囲気を残していたけれど、今や町会議員さんです。

確か、青森の地域ライターさんを訪ね、それから松前まで回ったのでした。

松前城を案内してくださって、(彼は今もここのガイドさんをしています)、お土産に「松前城」と書かれたシャモジを買ったのでした。

正確には木製の炒め物用ヘラですね。チャーハンや野菜炒めに活躍しています。文字はすっかり滲んでいますが、使うたびになんとなく松前を思い出すものです。


私の古ーい携帯についているストラップ。「瑞龍寺」とあります。

革製で、裏には火ふせの神様が型押ししてある。単なるお土産物風ですが靴ベラにもなるので、実に便利。丈夫で使い込んでいるうちにいい色にもなってきました。

横のペンダントは実は金属製のジグゾーパズルの一片がアクセサリー―になっているもの。これがないと、パズルが完成しないという、不思議な一片です。

いずれも10年くらい前の物かな〜。富山県高岡市へ、スローライフ逸品作りの研究会・ワークショップで通っていたころのものです。

あの勉強会で、どれほどの品物が発案されたか!いま、どのくらい残っているかなあ〜。

ま、残っていなくとも、研究し続けたメンバーの頭にはいろいろなアイディアや経験が納まったはずです。

これはまだ新しいもの。

2年前、長野県飯山市に通い始めたころ、生まれて初めて「かまくら」の中で、鍋をつついて一杯をしました。

こちらの防寒が手薄で、コートだけでした。熱燗を飲んでも追いつかない寒さ。

するとご一緒だった地元の方が、ゴソゴソと出してくれた。「女房がこんなの作るのが好きなんです。使ってください」と帽子とマフラーを出された。

真っ白な雪に囲まれた中で映えた水色のお手製帽子。マフラーとともに、この冬にも使わせていただきました。

あったかです。

いろいろな土地に行くたびに、何かしらの物が増え、「思い出もの」は増えていきます。

断捨離なんて流行していますが、こういう物は一緒に生きている感じで処分はできません。

100歳になった時「これは確かね〜、あそこでね〜」と語れるおばあちゃんでいましょう。

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ちょっとしたこと まだこれから 2018/05/14 2:40 pm

96歳の実家の母が尻もち、お見舞いの電話をすると「お母さんもそろそろ歳ね」と笑い声。

同じ年齢のドナルド・キーン氏は新聞紙上で、100歳を超えて1人暮らしの友人を讃え「101歳に負けないぞ」と。

昨日読んだ小冊子には、江戸時代の土木技術者・大畑才蔵の話。彼は66歳にして人生最大数10キロに及ぶ用水路工事に取り組んでいます。

まだまだ私などこれから、ということですね。

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家事現役の母はそれなりに弱ってきています。なので、今回も踏ん張れずに転んだのだそうでした。

姉から聞くと、転んだまま起き上がれな自分にショックだったようです。首も腰も手術し、脳梗塞もしたんだからしょうがない。とはなかなか思えない性格です。

その母に母の日プレゼントで、今回は瀬戸内寂聴の『いのち』と佐藤愛子の『老い力』の2冊を送ったのでした。

転んだせいでしょうか、「まあ、お母さんもこういうのを読んで覚悟していかなくちゃね」と母は語ります。

少々可愛そうに思ったら「ま、あんたもじきにこうなるわよ」と笑う。「お母さんね、気に入らない色のファンデーションがあるから、今度来たらあげるわよ」とも。

この母の前では、私はひれ伏すしかありません。私など未だに子ども・ガキなのでした。

キーンさんの話に出てくるアメリカの101歳おばあちゃんは、実に知的好奇心に富む美人らしい。

毎日、新聞を隅々まで読み、おしゃれも欠かさない、香水も、だそうです。

キーン氏は彼女との会話を楽しみ、負けちゃいけないと思うそうです。100歳にして一人で、知的。理想の姿ですね。

しかし、昔もすごい人はいました。人生50年といわれた時代に、66歳で大工事を任された大畑才蔵にも驚きます。

皆が隠居どころかなくなる年齢にして燃える男、カッコいいですね。現場に立ち、68歳で100日の工期で休んだのは1日だけとか。

74歳で現役を引き、79歳で亡くなりますが、彼のおかげで水に困っていた土地は紀の川の水を引き、広大な水田になったのでした。

昔の偉人でいえば、私の父の実家近く、佐原に伊能忠孝が居ます。九十九里出身、佐原の酒屋に婿養子に入り、49歳で隠居。50歳から新たな人生を歩みました。

55歳から71歳まで10回にわたり日本中に測量の旅に出かけ、ひたすら歩き地図を作った人です。

以前佐原で、記念館を訪れた時、千葉県人として誇らしく思いました。

大畑も伊能も、現代に置き換えれば80〜90歳代くらいで世界に誇る偉業を成し遂げたということになるでしょう。

この方々と比べるにはおこがましいですが、私などまだまだこれから。「で、どうするの今後?」という段階なのですね。

はい、頑張りましょう。

母の尻もちから、いろいろ学んだ母の日でした。そういう意味でお母さんありがとう、です。

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ちょっとしたこと 荻窪商店街ぶらり 2018/04/23 11:25 am

静岡市呉服町で“一店逸品運動”をしてから、もうどれほどの商店街とお付き合いをしたことでしょう。仕事がらというよりも、とにかく商店街好きの私です。

今回は東京・荻窪の商店街を歩きました。駅付近にいくつもの商店街があります。店の数よりも、新旧が、品の良しあしが混在していることがおもしろい。

しかも住んでいる人が楽しんでいる。それが大事と思いました。
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我が家から少し丸ノ内線に乗ると荻窪、JRなら中央線です。ベッドタウンというには活気があり開けている、学生さんも多い、ま、ビジネス街ではないけれどたくさんの人が居る街です。

駅から南へ北へ、いくつかの小さな商店街がある。先日いただいたあんころ餅がかなり美味しかったので、その店がある教会通りにまずは行きました。

この商店街の顔というべき蜂蜜屋さんです。65種類、10各国の蜂蜜がある。もともと養蜂をしていた老舗、量り売りもしています。

こういう専門店がひとつでもあると、その商店街の重みが出ますね。

蜂蜜レモンのようなさわやかな飲み物を、試飲させていただきました。


洋食屋さん、ここのポップがおもしろい。

メニューと値段だけじゃなくて「マタニティマークをお持ちなら10%割引」とか「名古屋出身の店長がモーニング始めました。ドリンクにトースト・ゆで卵つけます」なんてある。

マタニティ割引は他のところでもどんどんやるべきだなあ〜。

モーニング本場の出身なら、どうしてもやりたくなっちゃったんだろうなあ〜。

なんて、思いながら、今度ここに入ってみようと決めます。

道に車は入ってきませんが、とにかく自転車が多い。地元の人が行ったり来たり。その合間を縫って、私のような来訪者がウロウロしている。

日常と晴れが混じっています。









やややや!すごいクリーニング屋さんがありました。

建物自体が“世間遺産”的存在。いつごろからあるのでしょうか、なかではおじいちゃんがせっせと働いていて、おばあちゃんと会話している。

昭和のドラマのワンシーンになりそうな世界。下調べなどしないでポンと来るのが好きな私です。

この「洗濯屋さん」は調べれば、そうとう取材されたり、写真に撮られていたりするはずです。

なのに、サッシではない木製の窓の向こうで、淡々と仕事をしている。この商店街が浮かれてヒラヒラと飛んでいかないように文鎮の役割をしているようでした。

8畳間くらいかな〜、もっと小さいかな〜貸ギャラリーです。たった1日でも貸してくれる。

確かに安くはありませんが、お仲間と数日借りて壁面をシャアして写真展もいいなあ。

こういうところに、自分のスペースを持てるというのがうれしい。貼り紙がおしゃれです。



おしゃれ空間があったと思ったら、商店街から横に入るとすぐに庶民の生活空間。

運動靴が、まるでオブジェのように乾かしてあります。

こういう脇道に入り込んで、暮らしのお邪魔にならない範囲でウロウロするのも楽しい。




ありました、ありました、和菓子屋さん「榛名屋」。おにさん一人で店番のいい感じ。

お目あてのあんころ餅は、一見、ぼた餅なのですが、なかはお米でなくて草餅が入っているという優れもの。とにかくあんこが美味しいお店。

次から次へと、地元のおばちゃんたちが買っていきます。おにぎりもあれば、海苔巻きもある、ヒジキの煮物もある。このままお店ごと持って帰りたいくらい。

ショーケースひとつで勝負しているのもいさぎ良い。


ここんところお疲れモードとの夫と店頭で念入りに打ち合わせして、今日は柏餅にしました。

買って、即、ここで食べます。というと、おにさんがお皿にのせてくれました。

通りを歩く人を眺めながら食べる私のは味噌柏、美味しい〜。

ショーケースには、今どき珍しいちゃんとした生け花が飾られています。そして付箋に、生けてあるものの名前が。「うりはだ楓、カーネーション」などとメモしてある。

聞けば「お客さんから聞かれるんですが、すぐ忘れちゃうんで」とおにいさん。あんころ餅買いながら花の名を聞く、聞かれたら応えられるようにメモしておく。

こんな関係がこの商店街にはあるんですね。


さて、荻窪駅に戻り、南側に抜けるために別の商店街を行くと、こんな看板が。

そうそう、ほんと、文化です。と言いながらこのまま入りたくなります。アツアツの餃子にかぶりつき、ビールをくいっと。

これは必ずや、実行しに来ないと。


学生さんも多い街です、古本屋さんも目立ちます。ここは古レコード屋さん。レ、レコードですぞ。

どんなのがあるんだろう?買っても聞けないけど、見たい。ジャケットだけでも、昔の気分に浸りたい。

マニアックな若者と、私のようなシニアも来るのではないでしょうか。




駅南口の商店街のパン屋さん。テラスでバケットサンドなども食べられます。私は暑いのでジンジャエール。

なんでこの店にしたのか?

立て看板に「ドリンクのみのご利用、ワンちゃん同伴大歓迎です」とあったから。気持ちのいい店ですね。

さて、ここまで書くと、荻窪大好き、商店街絶賛で終わるのですが。ふと考えます。

私が通う、地方のまちにはこんな商店街はありません。昔、商店街だったらしき遺跡のような通りは残る。

もとお店をやっていただろうガラス戸のなかの土間は、自転車やシルバーカー、応接セットが置かれたり、君子ランやシクラメンが飾られたり。

ポツンとあるお店も息絶え絶えだったり。そういうお店すらなくなっているところもあります。

人が東京に集中し、地方の交通は車が中心になり、大規模店ができて、などなど商店街が滅んでしまったのには様々な理由があるでしょう。

お店を覗きながら、いろいろ会話する、歩き回るこの楽しみは地方のまちではもう体験できないのでしょうか?

ならば、せめて、まだ残っている頑張っている数軒の個店を住んでいる人が支えてあげたいものです。わが故郷には店らしい店が全くない、なんてことでいいのでしょうか。

荻窪にはたくさんの学生さん、若い夫婦、子どもたちが居ました。この人たちが古里に帰った時に、小さいながらも商店街や専門のお店を大事にする、楽しめる人になってもらえればと思います。

人口の多い東京は、そういう見本事例として、頑張る個店や商店街を買い支え、文化遺産としてもにぎわう商店街というものを維持しなくてはいけないと思います。


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ちょっとしたこと お店をやりたい:その3 2018/04/16 1:31 pm

私、スローライフをテーマにしたお店をやりたいと騒いでおりますが、今日はその場所のお話。

新宿四谷で普通の貸店舗を借りるには、ビックリするほどの家賃がかかります。

それにどこかの空き家を、事務所も兼ねた古民家カフェのような設えにできないものかと思うと、そもそもそういう物件がない。

家賃が安く空き家がいっぱいの地方と、東京のこの差は何なのでしょう?
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東京にも空き家はたくさんありますが、ごく普通の一戸建てで風情がありません。

または持ち主が放ってあるのか荒れていたり、または本当に崩れかけていたり。田舎の立派な空き家を見ている私には、使いたくないような家ばかり。

ならば普通の貸店舗を正々堂々とお金を積んで借りなさい、ということになりますが、これまた笑ってしまうくらい高い。

月々数十万を払うとならば、そこでよっぽどお金を稼がないとやっていけないということになります。

かつて、私が24歳の頃、都内のマンションに住んでいて7万7千円の家賃を払っていました。当時のその値段ですから結構広く、女友達と共有していました。

それが、東京を出て静岡県に移動し、ある海辺の町に住んだとき、同じ広さが7000円で借りられました。10分の1以下です。

しかもそのアパートは、窓を開ければこんもり緑の茂った山が見え、一歩外に出れば大きな富士山を仰げる。水道は柿田川湧水からの冷たい美味しい水。

いったい私は何のために働いてきたのか、スモッグ一杯の都会で家賃を払うだけのために徹夜してきたのか、と、ショックでした。

当時は周囲から「なぜ、東京からこんな町に来たのか。もったいない」といわれました。

皆が何とか田舎から東京に出たい、東京に追いつきたいと思っていた時代です。私の逆流は不思議だったでしょう。

その数年後、、静岡の山地の川のほとりに、古い農家の空き家を見つけ住んだこともあります。この時は、広い庭付きで10,000円。

畑もやりました、釣もしました、シェパードも飼いました。近くの人が、猟で射止めたキジや猪を届けてくれました。お風呂に入ろうとすると沢蟹がいる、そんな暮らしでした。

今でこそ、仕事さえあれば、田舎に住みたいという人は多いものですが、当時はまだ珍しかった。

それをさんざんやってきて、今やまた東京に住み、さらに東京で店までやりたいと思っている。これもまた、逆流なのかもしれません。

こんな悩みを打ち明けると、「野口さんごと田舎にひっこして、そのお店のプランをわが町でやってよ」という人が何人か出てきました。

でもそうじゃダメで、ここは譲れない。こんなにひどい東京にこそ、少しでも良いもの良いことの細胞を移植しなくてはと思うわけです。

地方のむら・まちと繋いで、少しでも東京に良い血を流したいのです。東京に住む者が真剣に東京のことを考えないと、日本が危ないから。

店舗を借りる場合、家賃6ヶ月分の敷金と、2カ月分の手数料。数十万の家賃×8倍、プラス内装・什器備品、きゃ〜〜〜〜〜!

田舎では、日曜大工以上の技術者である友達たちが、内装ぐらいお茶の子さいさいで助けてくれるでしょう。物もいろいろ集まってくるでしょう。

東京では、総てがお金ということになりがちです。今から、こうして騒いで仲間を募るしかありません。

では騒ぎましょう!

「私のうち、古いけど使っていいよ」なんて人が現れないかな〜。

以下、以前のブログです。
「お店をやりたい」
http://noguchi-tomoko.com/modules/yutoriaruki/details.php?blog_id=426&date=201708


「お店をやりたい:その2」
http://noguchi-tomoko.com/modules/yutoriaruki/details.php?blog_id=431&date=201709


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ちょっとしたこと 7年経って 2018/03/12 2:32 pm

東日本大震災から7年、ここ数日の報道は急に思い出したように震災や復興を扱っていました。

で、私たちはどうでしょう?あの時は、原発は要らないと思ったし、本当に暮らし方を変えようと思ったはず。その本当は、何だったのでしょう。

外国から「あの災害で学習した日本はどう変わったか?」と問われたら・・。

私たちは各人が、自分の言葉で世界に説明する責任があるはずです。
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あの日、NPOの事務所にいると大きな揺れが始まりました。怖がりの私はテーブルの下に潜り込みました。男性2人が、玄関のドアを開け、倒れそうなロッカーを抑えています。まだ揺れてる、まだ揺れてる、いつまで揺れるんだろう、どうなっちゃうんだろう。すごく長かった。

揺れが収まると、家族に電話。直後なのでまだ繋がった。無事を確認すると、40センチくらいズレているロッカーを戻します。ラジオをつける、ネットで調べる。東北だ、大きい。

阪神大震災の時の様子が思い出されます。潰れたビル、倒れた高速道路、同じくらいなのでは。神戸に住んでいた人から、揺れで畳の上を身体がゴロゴロ転がったと聞きました。そんなことも思い出します。

津波警報も出ていました。海辺の方はどうしているのか?思いを北に向けることもできないで、自分の現実でした。電車が止まっている。そのうち動くかも、そのうちって何時?これはまずい、もう帰りましょう。

うちのNPOですらそうだったのですから、都内のオフィスから一斉に人が吹き出しました。駅も道路も人だらけ。駅に行っても動く見込みはありません。事務所にいた3人は「とにかくご無事で」と言いあって別れました。

1人は大変幸運にタクシーに乗れ、渋滞だったり動かなかったりしながらも、歩かずに四谷から中野坂上までたどりつけた。もう1人は仕事を終えてから、都内からさいたま市まで歩き続けた。そして私は、やはり歩いて帰宅したのでした。

四谷から麻布まで、数キロではありますが、歩くのは初めてでした。しかもこの日は着物。着物は慣れているものの、長距離を歩くには向いていない。でも、タクシーなどつかまりませんし、自転車を買ってしまおうかとも、でも着物では。

覚悟してペットボトルとキャラメルを持って出発。ヘルメットをかぶっている女性、非常持ち出し品リュックを背負っているサラリーマン、披露宴帰りの人、子ども連れのお母さん、いろんな人が静々と流れのようになって歩いていきます。

あまりしゃべらない、どうなるんだろうという不安で、皆が寡黙になっていました。いい加減歩くと、もはやハイヒールの女の子は靴を脱いでストッキングで歩き出します。皆、かっこなんてどうでもいい、って感じでした。

六本木まで来た時に、どこかの高級車を売っている店先の大きなテレビに人が集まっていました。見たこともない、凄い津波の様子が映っていました。足がワナワナしました。早くうちに着きたい。

途中の大きなスーパーにはもう品物がなかったので、路地に入ったところの店でカップ麺と魚肉ソーセージを買いました。家に食べ物はあるものの、何かしら買っておきたかったのです。

ようやく家に着くと夫はテレビに釘づけでした。そして、私たちはその後、コマーシャルのないテレビをずっとみることになります。そのテレビから流れる情報は、あまりに悲惨でした。

そして、原発の爆発事故。「今すぐに影響を及ぼすものではないので、落ち着いて行動してください」と繰り返された虚しい政府発表。もっと虚しいヘリコプターからの散水。消防車からの放水。都内では地区ごとに順番で停電にするとか、しないとか。節電節電。

地震、津波の直接被害に目を奪われているうちに、放射能汚染は広く遠くに広がっていたのでした。換気扇をふさげとか、窓に目張りしろとか、子どもは外に出すなとか。うがい薬を飲むといいとか。いろいろな話が伝わって来ました。

当時通っていた合気道道場の外国人の子どもたちは皆、本国に避難しました。東京も危ないから、九州まで移住するという人もいました。

この震災で、福島でつくってくれていた電気を、東京がジャブジャブ使っていたことに初めて気づいたものです。でも急にお店の音楽を止めても、ショウウィンドウを暗くしても、イルミネーションをやめても、もう元には戻らない。福島の人は追い出され、人生が狂い、健康を害した。そして今も。

あの時、一度、日本はわかったのに。膨大な犠牲の上に、過ちに気付いたのに。7年経った今は何?と思うわけです。テレビではばかばかしいお笑い芸人が大食いをやっている。政治家は私利私欲に走り、忖度した役人は犠牲になる。何がどう変わったの?変えたの?

こうしてその時のことの思い出話はできるのに、その後、日本を変えるために私がやって来たことを具体的に書けないもどかしさ。「スローライフ運動をやっています」そのくらいで海外にむけて説明になるのでしょうか?

飯館村で「までいにやれや」と言ってくれたおばあちゃんに、顔向けできるのでしょうか?と思います。

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ちょっとしたこと 会議の進行役とは 2018/03/05 3:33 pm

いま、ファシリテーター研修をやっています。これまでもやりましたが、いつも強調するのは「会議だけかっこよく回してもだめ」ということ。

都会の会議室で若者だけでならともかく、地方の村おこしの現場でカタカナで話したってしょうがない。

会議以前にもっと広く深いところで、いろいろ段取りすること
があるし、それもケースごとに違う。進行役はいろいろ学ぶことあるのです。
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ネットなどで調べると、“Facilitatorは会議などを円滑に運営、管理する進行役を指す。”とあります。

確かにそうかとは思うのですが、実際には円滑ばかりが良いということもありません。

こてこての論争などが起きることもあります。それはそれで私などは面白く、「よくぞ言った」という場面もありますし、時にはブルブル震えて泣きながら発言、なんてこともあります。

そんな本音が出た方が、その後は上手くいくことも。時間通りに、うわべだけで話すよりもずっと価値ある会議になることも見逃せません。

こんな解説もあります。“ファシリテーターは議事進行やセッティングなどを担当するが、会議中に自分の意見を述べたり自ら意思決定はしない。”

そうもしていられないことがあります。活動がかなり遅れている時、えいやっと何か動きを起こさないと突破できないとき、
「もう、とにかくやってみようよ」などと意見を述べ、「みな、それでいいね」などと決定していくこともあるのです。

これで勢いがついて、または野口さんに怒られちゃうからなどの理由で、何かが動き出すことが多々あります。

何かのせいにして、しょうがなくやった。失敗してもあの人のせいだから・・・。

それでも何か得るものがあれば、やって良かったということになる。そういうことを引き受ける役割もあると、私は思っています。

“「場を作る」「意見を引き出し整理し絞りこむ」などが主な役割と”の解説もあります。この場合の場づくりにはどこまで含まれるのか。

以前こんなことがありました。意見がなかなか出てこない。時々つらそうな顔もある。なぜ?と思っていたら、参加していたおばちゃんたちは皆、膝が痛かったのです。

座敷の会議は、意見以前にそれがしんどかった。次に椅子とテーブルにしたら、笑顔がこぼれた。この辺りは、都会の若僧にはわかるまい(笑)。

煙草の問題もありました。土地の有力者がヘビースモーカー、皆がそれを文字通り煙たがっていた。それを当たり前のように私が禁煙ルールにする、そんな場の設定も決定もあるわけです。

さらに踏み込んでいえば、会議などは氷山の一角。そもそもその会議が何の目的で、何回行われるのかを意識して、最初に全体を設計する必要がある。

例えば、8回行って、とにかく参加者が「地域づくりは面白いと実感できるワクワクと、達成感を」が着地点。

ならば、その会議をよりワークショップ式にして、取り合ずワクワクできるように、とことんほめて世話をして「いいね、いいね」で何かしらの試行を成功するようにお膳立てする。

8回終了時には目的通りの状態まで持って行く。これも役割だと私は認識しています。

それはもうファシリテーターではなく、地域おこし推進係なのです。だからそういう立ち位置にまで行かないとだめ、単なる会議の進行ではないよ、といいたいわけです。

なのに、「ファシリテーターってかっこいい」と思っている若者も多いものです。

一方、ホイホイしないで、厳しく、世話をしないで「企画から予算まで考えられる場にする」が着地点。

ならば、これは会議は楽しくありません。本当にことに取り組んで、大人として何かを牛耳る喜びを知って初めて楽しいような場にする。

そんな場ですから、単純楽しいを求める人にはつまらなくなります。そういう場づくりもあります。

何回で、どこまで持って行くのかは、仕事として一番気がかりなところとなるはずです。

地方の小さな会議では、言葉よりも現実で、待ったなしの場合もあります。

草を刈る人もいなくなった。集落には店もない。でも何とかこの十数人でむらを維持したい、希望を見出したい。

そんな小さな寄合で、「私、会議のファシリテーターをさせていただきます野口です」なんて自己紹介をしたとたん、みんな引いてしまうでしょう。

でも、現実、そういうコンサルタントが多い、かっこよすぎる進行が多い、ポストイットが飛び交うだけ。

東京は日本のごく一部、こんなところで通用しても本物の仕事師にはなれません。

と、褌を締め直して、??私、またファシリテーター研修などするわけです。はい。

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ちょっとしたこと オリンピックで 2018/02/19 10:56 am

にわか羽生ファンになってしまいました。もちろん、宇野・葛西・小平ファンにも。

最近のテレビでは、嫌な政治のニュースか馬鹿なお笑いばかり、テレビをつけるのも嫌だったのがこの数日は違いました。

夢中で見て、声を上げたりウルウルしたり。日本中が“元気をもらった”のではないでしょうか。

ならば、その元気を何に使うかですね。目の前には、問題山積みの現実があります。
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もちろん、オリンピックが世界の祭典ではないのは分かっています。どう見てもお金持ちの国の、お金持ちの人しか参加できない。

オリンピックは純粋にスポーツだけ、なんてのはずっと前から嘘で、時の政権に利用されてきた。それもわかっています。今回などはまさしくそうです。

感動というものを大金を動かして量産し、誰かが儲ける感動産業。しかもアメリカ時間にあわせで競技なんて、選手も大変だったでしょう

そんなふうに作られた仕組みに、みんながはまってキャーキャー言っているわけです。

分かってはいるのですが、今回は素直に感動しました。

テロや内戦がやまない、飢餓に苦しむ国もたくさん、地球の自然はどんどん壊れていく、福島の原発事故はいまだそのまま、確定申告の時期なのに国税庁長官は頬かむり、などなどそんな中での夢の一幕だったのでしょう。

何かを忘れるために、むしろオリンピックに踊らされてみた、ということなのかもしれません。


いつからか、日本の民は皆、テレビのカメラなど向けられると、「感動をありがとう」とか「元気をいただきました」などと発言するようになりました。

自分では感動できない、元気になれないということでしょうか?

どう見ても元気すぎるようなおばさんが「元気もらいました、羽生君ありがとう」なんて語っていると、で、その元気をどうするの?と思ってしまいます。

人間の可能性は凄い、ということを知ったなら、自分もそのくらい頑張って地域や社会をよくしていこうじゃありませんか?!

いただいた元気で、またワッショイと食べ歩きして、さらに醜く太っていかないように。

いただいた感動と元気の使い先を厳選し、テレビに向けた凝視するそのまなざしで、世の中をきちんと見ていきましょう。

と、自分に言っている野口でした(笑)



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略歴

<野口智子(のぐちともこ)>
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局長
千葉市生まれ。東京でコピーライター、プランナーを経験。1977年静岡県に移り企画・編集プロダクション設立。
1992年ゆとり研究所を開きコンサルタント業務を開始。
ライフスタイルの提案、「一店逸品運動」による商店街の活性化、時間消費型観光おこし、人材育成などの分野で活動。
2000年からスローライフ運動を開始、2003年スローライフ・ジャパンを設立、現在、事務局長・副理事長。
2006年から活動拠点と自宅を東京へ。現在はスローツーリズムの提案、商品開発、地域観光の育成、都市と田舎の交流、移住・定住プロジェクト、“食”をテーマにしたまちおこし、などに力を入れている。住民参加の独自の楽しいワークショップが得意。
現在、地域力創造アドバイザー(総務省)、地域再生マネージャー(ふるさと財団)、国土審議会半島振興部会委員。