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ゆとりある記 お茶ツーリズム 2019/05/19 2:18 pm

緑きらめく静岡市の茶園で、お茶摘みをし、お茶の飲み比べをし、珍しい茶ソーダやすすり茶を味わう90分の「茶旅」を体験しました。

「そふと研究室」というところが企画するオーダーメイドのお茶ツアー。時季・人数・時間・やりたいことにあわせて、細やかにコーディネイトしてくれます。

終了後さらに体験したのは、静岡名物のおでん。もちろんここでも焼酎のお茶割でした。
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静岡市街・浅間通りにあるのが「そふと研究室」、「リベロツアー」という旅行センターもやっています。

まちおこしのコンサルタントのような仕事やイベント企画までいろいろなことをやる研究室ですが、数人の女性で運営。

少人数・オーダーメイドの旅を「はいはい、なんでもまずはご希望をうかがいましょう」とお客側のわがままを聞いて、できる限りかなえるという方針とか。


今回はたった3人で、時間は少なく、ちょっぴり体験したい。お茶ツーリズムの濃いところだけを。というわがままをお願いしました。

朝、市街地からほんの20分、見事な茶園に連れて行っていただけました。スタッフで日本茶インストラクターの鈴木和恵さんが説明してくれます。

茶畑は分散してある。柿の木やシュロなどを目印に植えてあったり。一ヶ所だけ広くとしないのは天候で全滅などのリスクを避ける意味もある。急斜面の茶畑を70〜80歳代の高齢者が頑張って守っている。摘み取り20日くらい前から黒い覆いをすると渋みが出ずに旨みが増す。

と、一気にお茶の知識を吸収です。

刈り込んでいない自然仕立ての茶園で、さあ、摘んでみましょう!となりました。よく言う“一芯二葉(いっしんによう)”の摘み方です。

さらに鈴木さんからアドバイスが。“茎尻(くきじり)”は5ミリ程度にとどめる。長く茎を入れないこと。つまり茎茶になってしまうわけですね。

そして爪でちぎらないこと。ばい菌が入るのです。「爪を使わずともプチプチ折れますから」

せっかく茂っているのに、たったこれだけしか摘まないなんてもったいないと思うのですが、「この“みるい”ところが美味しいお茶になるんです」とのことです。

「?みるい?」これは、この辺りの言葉で、未熟な、柔らかいとかの意味。「あの子はまだみるいね」など人の評価にも使われるとか。

鈴木さんは函館出身ですが、お茶の魅力にすっかりのめり込んで資格もとり、いまやこんな静岡弁まで操っているのでした。

「そふと研究室」の代表の坂野真帆さん。実は、かつての私の部下?というか、アシスタントというか、をしていてくれた方です。

独立し、いつの間にやら旅行業務取扱管理者の資格をとり、いわゆる“着地型旅行”のかなり少人数のお客様にも対応、もちろんインバウンドにも対応する独自のツアーを生業にしています。

富士下山ツァーなんていうスローなメニューもある。

株式会社として続いていることにアッパレと思っていましたが、今回、初めて私は、お客としてうかがったというわけです。

胸までの緑のプールに入ったような感じ。目の前の“みるい”芽を摘みます。本当に簡単にプチプチ折れます。









とはいえ、本気摘みではありません。写真撮って〜とか、日に焼ける〜とか、カゴに全然たまらないよ〜なんて調子。









でも何か口に入るものを収穫するのは楽しいものでして「俺、全然興味ないよ、茶摘みなんて」と言っていたわが夫まで、「結構おもしろいな〜、できる、摘める」と顔をほころばし始めます。

鈴木さんのお勧めで、茶の芽を口に入れると、苦いのですが口がさっぱりとしました。



「この辺が一番写真に映えますよ」とおすすめの場所で記念写真です。

なんだかよっぽど働いたような雰囲気ですが実はカゴはまだまだ空っぽ。仕事として何日も、歌にあるように摘めよ摘め摘め♪という時代は大変だったでしょう。




はしゃいでいる大人たちを移動させるには技がいります。でも坂野・鈴木コンビが上手に「はい、移動しましょうね」と連れて行ってくれたのが茶園の持ち主である「森内茶農園」。

茶工場の横に車を止めて、江戸時代から続くというお宅にお邪魔しました。ここのお茶は日本はもちろんのこと世界的なコンテストでも金銀の賞をとっているそうです。

出迎えてくださったのは森内真澄さん。手もみ保存会の師範でもあり、日本茶アドバイザーを育てる講師、たくさんの資格のあるかた。

農家のお母さんというより、素敵なお茶カフェのマダムという雰囲気です。




玄関にあった茶刈り機を「ちょっと持ってみたい」と希望すると、森内さん「どうぞどうぞ、なんなら袋もつけましょうか〜?」ノリがいいです。この辺もオーダーツアーですね。

二人でもつこの機械はとても軽い、でも袋に茶葉がたまってくるとそれが重いのだそうです。



土間のカフェに座ると、この3点セットが出ました。きれいです!グラスのが「茶ソーダ」。お茶をソーダで割っているので、甘くなくさわやか。

続いていただいたのが「すすり茶」。上級茶葉の上に氷をひとかけのせ、自然に溶けた水で茶葉が開き、濃い水出し茶ができる、これをお皿を口に運びすするのです。初めての体験、濃くて美味しい大人の味ですね。

このアイディアは森内さんのもの。「家のどんな小皿でもいいからやってみて」と。実はこうした後の、生き返ったような茶葉に最後は「茶の実油」というオイルをかけて、岩塩も少し振りサラダのようにいただいたのです。これも衝撃的な美味しさでした。

イチゴとワサビの羊かんをいただいている間に、鈴木さんが4種のお茶を淹れてくれます。可愛い急須と湯呑を使って、そのお点前がお見事。








「香駿(こうしゅん)」というお茶だそうです。同じ種類の茶樹から、加工によって違う味わいのお茶ができる。

左が普通の煎茶、次が少し発酵した釜炒り茶、次がいわゆるウーロン茶、そして一番右が紅茶。左から順に飲んでいくと、大きな変化が分かります。お茶っておもしろいですね。


普段、ペットボトルのお茶をラッパ飲みばかり。そんなお茶の世界にどっぷり浸かった者には、ひさしぶりの旨味、香り、そして茶文化の体験です。

いい急須がほしくなりました。






森内さんのお茶の販売はすべて1000円、重さは様々ですが値段が統一してあるのがおもしろいしパッケージもかわいい。「私がお釣りの計算ができないから、ははは〜」と森内さんは笑います。







鈴木さん、森内さん、坂野さん、3人茶姉妹とすっかり仲良くなった90分。

また夏、秋、と遊びに来たくなります。本当は早朝茶市場見学もしたかったのですが、時期既に遅しでした。





こういう農村の日常の世界に入ると、観光施設とは違う時間が流れます。

駐車場の近くでは、ほかの農家さんがモミをまいて稲の苗を用意中。ひとこと二言の会話が思い出になります。





夕飯の後、たっての希望で静岡おでんの店40軒近くが並んでいるエリアに繰り出しました。これはもちろん自由行動ですが。

入ったお店は、もとバスガイドだったおばさまがやっているお店。昔の話が止まりません。ご一緒した女性客は台北からの一人旅、日本の全都道府県を回り静岡が最後だそうです。

おでん横丁にまで外国から個人客が来る時代、お茶ツーリズムにも外国人の方が多いのが分かります。そんな話を聞きながら、「静岡割り」という焼酎のお茶割りをいただいたのでした。


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ゆとりある記 本多木蝋工業所 2019/05/12 10:18 pm

木蝋で「もくろう」と読みます。長崎県島原市、日本でただ一軒、化学薬品を使わずにハゼの実を圧搾機でしぼり、100%純粋な木蝋をとり、和ろうそくを作る本多俊一さんを訪ねました。

ここの木蝋は1792年雲仙普賢岳噴火の後、島原藩がハゼを植えさせ蝋で財政再建したことに始まるそうです。

和ろうそくの揺らぐ炎は精神を安定させるとか。現代こそ、この伝統技術が必要です.
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島原鉄道大三東駅からすぐのところに、本多木蝋工業所はあります。工業所といえども、資料館、売店、作業場などが連なっている広いスペース、もとは住まいなどだった建物を利用しているので、はるか昔からここで木蝋がつくられてきたような雰囲気です。





作業場の方に入ると、いきなりハゼの実が山と積まれていました。ここが木蝋作りのところなのでハゼと分かりますが、山でこの実を見ても、ハゼ、蝋の材料とわかりません。私だけでなく、わからない人が多いのではないでしょうか。






それほどまでに縁遠くなってしまった木蝋を、本多俊一さん、美佐さんご夫妻が守っておいででした。

お二人とも学校の先生だった方、家業として本多さんのお祖父様から続いていましたが、それを「もう時代遅れだからやめよう」ではなく、「貴重な伝統産業工芸館にだから残そう」と思った、それが偉い。

やはり教師という職業上、何が大切かわかる。儲かる儲からないの基準でなく、守りたい!守るべき!の一念だったのでしょう。

ここでご夫婦は、木蝋を作りながら、木蝋がどんなものなのか、そして地域にどんな存在だったのか、生涯学習として伝える活動をされています。

昭和12年に製造されて、今も現役の「玉締め式圧搾機」。国内であと数軒木蝋を作るところはありますが、薬品を使って多量に蝋を取る仕組み。これは、江戸時代からの純粋な絞り方、唯一の技術です。






隣には、実際に江戸時代に使われていた絞り機の復元したものが並んでいます。今でも絞ることができるとか。噴火でやられた島原で、人々は必死に火山灰に強いハゼを植え、蝋を絞ってきたのでしょう。






ハゼの実は、砕き、蒸し、絞られます。その液を置いておくと、上に分厚く蝋の層ができます。奥様が包丁で切って見せてくれました。分厚い氷が張ったような状態です。







それを集め、丼?に流して固めたものがロウソクなどの材料のなっていくわけです。少し緑色を帯びた土色。

初めて見る独特の色です。木蝋はJAPAN WAXといわれ、ロウソクのほか、鬢付け油、口紅、クリーム、クレヨン、医薬品、減摩剤など様々に使われてきたそうです。



さすがもと先生と思える解説は、学習に来た人たちがわかりやすいようにつくられた、多様な展示資料で説明されます。









ハゼの木の芯のところの黄色い部部分は染料になり、美しい黄色のスカーフなど染める体験もできるとか。などなど、いろいろ学べます。








昔は、ハゼ畑があって、実をちぎって収穫する「ちぎり子さん」という仕事もあったとか。ハゼはかぶれると皆が嫌がるけれども、実を収穫時期のハゼはかぶれる成分を出さないので安心なのだそうです。






ここで作った和ロウソクに火を灯していただきました。なんだかあったかな、ユラユラする炎です。洋ロウソクは中に糸の芯が入っていてただ燃えるだけ。でも、このロウソクは中が空洞になっている。空気が通って、風がなくともゆらめくということです。





眺めていると、なんだかずっと見ていたくなります。この炎とずっと一緒にいたくなります。最近は仏壇で拝みこともなく、ロウソクを使っても危ないからすぐに消す、お線香にチャッカマンで火をつけてなんてことも多いのでは。

そうなると、ロウソクは遠いものになりました。バースデーケーキや、洒落たパーティーくらいしかロウソクの出番がありません。

だから、洋も和もない。その希少な和ロウソクの材料のハゼがどんどんなくなっている、なんてことも知りませんでした。

でも今回、本物のゆらめく炎を見ました。家庭内でざわめくことが多いなら、家族で炎を見つめる時間を設けたらどうでしょう。スマホのスイッチを切って、和ロウソクを見つめる時間を作りませんか。この炎と一緒に自分と向き合えば、ストレスは溶けていくことでしょう。

今の世の中こそ、和ロウソクの出番です。しかも薬品を使わない、安全安心な和ロウソクの出番です。

ハゼの木を植えたくなりました。

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ゆとりある記 写真展「戦禍の記憶」をみて 2019/05/06 12:24 pm

写真家・大石芳野さんの写真展に行きました。ベトナム、カンボジア、アフガニスタン、コソボ、広島、長崎、沖縄など、戦争の犠牲となった人々を40年間追い続けた約150点の作品群です。

「同時代に生きる自分を重ねながら平和への思いを新たにしてほしい」と作者から。

“令和騒ぎ”にうんざりしていましたが、意外に来場者が多く、そのことに私はほっとしたものです。
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ここで私の講釈を読むよりも、あと数日開催しているので、ご覧になっていただきたい。
東京都写真美術館で5月12日(日)まで
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3114.html




長い連休や、皇室万歳ムードや、令和狂乱マスコミにうんざりしていた日、この写真展に行って目が覚めました。


以前いただき、冷蔵庫にとめておいたチラシにはこんな案内文があります。

〜〜20世紀は「戦争の世紀」でした。二度にわたった世界大戦は、人類の危機ともいうべき大量の殺戮と破壊をもたらし、深い悔恨を残して幕を閉じました。しかし安寧は長くは続きませんでした。中国国内の革命戦争、新興イスラエルとアラブ諸国との中東戦争、アジア、アフリカ各地の独立闘争、米ソを軸とする東西冷戦に起因した朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻など多くの戦争がありましたが、21世紀を迎えても、ひと時も収まることなく継続しています。この写真展は、国際的なドキュメンタリー写真家大石芳野が戦争の悲惨な傷痕に今なお苦しむ声なき民に向きあい、平和の尊さを問うものです。〜〜

この文章をもっと理解してうかがうべきだったのですが、実に気軽に出かけた私です。そんな私を迎えた入口の写真は、高齢の品の良い女性の深い深い怒りの顔でした。

露骨に怒鳴ったりしてはいないのでしょうが、たくさんのことを諦めて、耐えてきた、その理不尽さを知的な目が訴えています。

「ボーッと生きてるんじゃないよ」と喝を入れられました。彼女は、ベトナム人80歳。解放軍の夫、3人の息子、2人の孫を戦争で失っているということでした。

もし私だったら、どうするだろう。生きていられないのでは。こんなふうにきちんと身なりを整え、強い眼差しでいられないでしょう。

「写真の中の一人ひとりに、同時代に生きる自分を重ねながら、平和への思いを新たにしていただけることを願っています」と、冒頭の大石さんからのメッセージにありました。

写真の一枚ずつに、どういう状況の人なのか、大石さんが取材された内容が詳しく添えられています。必然的に、今の自分と、今の日本に生きる人たちと、比べてしまいます。

枯葉剤の影響で、自分の子がこの子と同じく無眼球で生まれたら、私はどうしているだろう。

森で一週間、戦い続けていたというライフルを持った女性。彼女と同じ24歳が、 この東京でどんな暮らしをしているのか。戦うのだろうか、戦えるのだろうか。ちやほやされて、甘えるばかりの24歳の今の日本人に、いったい何ができるのでしょう。

何時間も並んで、ミルクの配給を受けるカンボジアの子ども達。好き嫌いの多い今の日本の子ども達は、並んで待つことすらできないでしょう。

市場に行ったまま夫は帰ってこなかった。5人の子を一人で育てている35歳の女性は70歳にもみえる。今の日本で、夫が殺され、手がかりも無かったら、そんな事件ひとつでも大事件でしょう。彼女のような母がたくさん!それが戦争なんですね。



コソボ。目の前で父親を銃殺された少年。家族、親戚、20人の中でただ一人生き残った少女。この子たちはどうなるのか。自分の子が、孫がそんな境遇になったら。

スーダン。難民キャンプのテントで子どもを産んだ15歳の子。日本では受験や化粧、スマホでBFとラインといった年齢です。

自宅の下に埋まっていた不発弾が爆発し、足をなくしたラオスの人。日本なら政府を訴えるのでしょうか。

銃殺した若者の肝臓を焼いて食べた、と平然と語る元ポルポト幹部。殺す側も壊れていく。

そして、同じく日本人も同じようなことをしてきました。731部隊。人間の冷凍実験で、人を吊るした釘が残ります。生きたまま私が実験に使われたら、気を失うまで、死ぬまで何を考えるのでしょう。

娘狩りでさらわれて、日本軍の慰安婦にされたら。刺繍が「桜の花にみえない、朝鮮半島の花のムクゲだ」といわれ、爪のなかに竹串を刺される、首に焼き印を押される拷問。銃剣で人を刺し、食べ物を奪う。

そううことを、もっともっとひどいことを日本もしてきたのです。家ではいいお父さんだった人を、殺人魔にするのが戦争です。



広島、長崎の原爆の被害。そして沖縄戦。私が持っていた案内チラシにあった写真は伊江島の壕から発見された遺品や遺骸を弔う様子の写真でした。

何かの儀式の写真かと思っていたのでした。戦後数十年しての発掘。「こんなに長く暗くジメジメしたところに居させて悪かった」と弔っている様子でした。

非難した壕のなかで、子どもの声で米軍に見つかるからと2歳の子に毒を注射する。軍からの命令と集団自決する。沖縄にはさらに今、私たちはいろいろな苦しみを強いています。

展示された作品は、ここに書ききれない内容ですが、最後の大石さんの言葉が残りました。

「歴史は繰り返す。しかし私たちは決して繰り返させてはならない。戦争は国と国とが終結の調印をしても、一人ひとりのなかでは決して終わらないからだ。被害者も、加害者も」

実はこの日、写真展の会場は実に混んでいました。ここにいる人たちが一斉にしゃべったら“大賑わい”という表現になったことでしょう。

ところが、来場者はたくさんいるのに話す人はいません。皆が沈黙して、何か歯を食いしばるようにして、一点ずつをみている。まるでお通夜の会場のような、大勢の静けさです。それほどに写真が迫ってくるのでした。

若い人も多い、そのことに驚きました。令和のスタートの馬鹿騒ぎの日に、こういう作品群をみたことを、考えたことを忘れないでほしいと思います。



テレビのインタビューで「令和は平和な時代になってほしいです」という言葉を何度も聞きました。「平和はつくるもの、守るもの」と、強く思います。

どんなにかっこいいビルが建っても、おしゃれなマンションに住んでも、素敵なネイルをしても、美味しいワインを飲んでも、パソコンを操っても、しょせんついこの間まで大人たちはみな人殺しに加担し、止められなかった戦争のためにみんなが死んでいった、そんな国に私たちは生きています。そして、地球上の今日も続く戦いを見て見ぬふりををしています。

地震でも、津波でも、噴火でも、台風でもない、戦争は人が人に振りかざす災いです。人が起こすのですから、人が止めるべきでしょう。

70歳代後半の大石さんが、いまなおこういう仕事を続けていることに、同じ女性として頼もしく、励みになりました。

私、続きます。

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連絡先

野口 智子 のぐち ともこ
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局
ゆとり研究所

TEL 090-7433−1741
E-Mail yutori@noguchi-tomoko.com

NPOスローライフ・ジャパン
〒160-0002 東京都新宿区四谷坂町9−4 リカビル301
TEL 03-5312-4141 FAX 03-5312-4554
E-Mail slowlifej@nifty.com


略歴

<野口智子(のぐちともこ)>
ゆとり研究所所長・NPOスローライフ・ジャパン事務局長
千葉市生まれ。東京でコピーライター、プランナーを経験。1977年静岡県に移り企画・編集プロダクション設立。
1992年ゆとり研究所を開きコンサルタント業務を開始。
ライフスタイルの提案、「一店逸品運動」による商店街の活性化、時間消費型観光おこし、人材育成などの分野で活動。
2000年からスローライフ運動を開始、2003年スローライフ・ジャパンを設立、現在、事務局長・副理事長。
2006年から活動拠点と自宅を東京へ。現在はスローツーリズムの提案、商品開発、地域観光の育成、都市と田舎の交流、移住・定住プロジェクト、“食”をテーマにしたまちおこし、などに力を入れている。住民参加の独自の楽しいワークショップが得意。
現在、地域力創造アドバイザー(総務省)、地域再生マネージャー(ふるさと財団)、国土審議会半島振興部会委員。