スマホでさようなら

ちょっとしたこと

姉が亡くなりました。3年間の闘病の末、本人も家族も覚悟の旅立ちでした。病の発見から看取るまで、活躍したのはスマホです。コロナ禍、入院時の会話。在宅で緩和ケアになって、付き添いの調整や情報共有にLINEグループを活用。最後も、即連絡が届き、皆が枕もとに集合。義兄のスマホから姉の好きな曲を耳元で流して。スマホ利用で家族が繋がり、心のこもった送り方が出来ました。

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実家には97歳の母と病気の姉がいて、義兄と近くに住む姪が中心になって、介護や看病をしてきました。やはり近くに住む甥家族も頻繁に通っていました。さらに、ヘルパーさんや看護師さんも来てくれていたので、母曰く「次から次といろんな人が来るよ」という状態でした。

姉の病気は既に緩和の時期をむかえていましたが、皆の気持ち的には、おばあちゃんが先かもという風に思っていたかもしれません。それほど、母も「私そろそろ死ぬのよ」なんて電話してくるくらい、体調に変化があったのです。

それでも、姉が「お医者さん言った通り、どんどん弱る」と語ったように、姉の方が確実にさようならの時期は近づいていました。少しは身体が動くうちにと姉はバックや服を皆に分けて処分。部屋の中も片づけて、義兄と母だけになったときに料理が出来るように、レシピをメモし、通ってくる孫たちにもそれを教えて味見をしていました。義兄がスーパーで買い物がしやすいように、売り場順に買うものを書き出し、日常必要な買い物リストを残しました。

3年間、特にこの1年は、こうした家族の連絡には姪が隊長になり、お医者さんの説明や、ヘルパーさんの体制や、すべてがラインで連絡共有されていました。今日は母が入浴できている、今日は姉が酸素吸入になった。姉の痛み止めは日に何回まで。刻々と伝わる情報は、電話だとついよけいなことも言いがちですが、淡々としていてよかったと思います。

最後に姉に会ったのは亡くなる一週間前。まだ何とか立ち上がり、トイレまで介助すれば身体を運べました。お刺身も美味しいと食べていました。その様子を母は「おお食べた、食べられた、良かった」と喜んでいました。

いずれにしても何時、どちらかが逝っても仕方のない状態。私などはたまに登場ですが、毎日、ローテーションを組んで通う、姪や甥の家族、は大変だったことでしょう。でも、家族が近くで、実に恵まれている環境。めったにない、幸せな看取り方だったと思います。

この秋まで、姉の楽しみは、スマホで注文する通販でした。自分が居なくなっても食べられるようにと様々なレトルト、冷凍食品を頼む。自分の娘や孫に服を買ってあげる。「買い物してる時が一番楽しい、忘れられるから」と。

そして、11月には都内のホテルに最後の家族旅行も。車いすがあり、料理はルームサービスで、家族4人が泊れるところを姪が調べて予約。ホテルに到着して、「こんなにいい部屋だよ。ママも喜んでるよ」と姪からスマホで動画が送られ、私と留守居の母も一緒に行ったように喜びました。そして姉はスアホも打てない、見れない、持てないようになります。

いよいよの最後の時は、姪が私に知らせてくれました。

「そろそろ亡くなりそうです」「呼吸が浅くなっています」「訪問看護師さんが手を洗ってくれました」「訪問診療の先生も来てくれました」「お兄ちゃん戻って来ました」「パパも帰ってくる途中です」と分刻みにLINEが届きますが、出張先でワークショップをやっている私はどうしようもありません。「ママ、パパが帰るまで、待っててあげて」とLINEするのが精いっぱい。

その一時間後、姪から「みんな間に合ったよ、みんなそばにいたよ、音楽をかけてみんなで見送りました。ママは亡くなっても美人さん」と報告がありました。姉の好きだったダイアナ・クラークの曲を義兄が耳元で流し、義兄が手を握っての旅立ちだったそうです。

葬儀の日も、車ではずっとこの曲でした。

「百日紅を剪定して」「裏の柿を少し鳥に残して取って」などいろいろなことを私に言い置かれまして、葬儀の後、コツコツと作業をしました。「見えるところに花を植えてくれる。おばあちゃんが喜ぶから。ビオラは花ガラ摘みが出来ないから、大きな顔見たいなパンジーがいい」その通りにしております。

娘の先立ちを持ちこたえた母は、今後どこまで頑張れるか。野口喜久子という名なので、早速ラインに「喜久子見守り隊」というグループが出来て、「明日4時には行けます」「では2時半に帰ります。ご飯は作っておきます」「明日のお風呂のヘルパーさん断りたいみたい」「お線香あげに来る人があると困るっておばあちゃんが言ってる」なんて、情報交換が始まりました。

これで、姉も安心でしょう。既読にならないけれど、時々LINEを送りますね。