動物家族

ちょっとしたこと

ここのところ、身近な友人3人の飼っていた犬、猫が相次いで亡くなりました。とんでもなく忙しくしている3人は、それぞれに、その動物を見送りました。ペットというより家族、我が子だったのかもしれません。我が家でも、以前に、飼っていたシェパードを見送っています。動物はいろいろなことを教えてくれます。私が学んだのは、「あなたも生き物ですよ」ということでしょうか。

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「動物家族」なんてタイトルをつけると、動物も家族の一員、いやもっと、今や、夫よりもペットが大事な時代、などという内容かと思われるかと思いますが、私の場合、動物も家族なら、人間も家族、そうだ、そうだった。と今頃気づいているという話です。

なので、冒頭の3人の事例にはここでは触れませんが、昨日こんな会話はありました。「本当、よくぞフォーラムが終わるまでもってくれたよね」。つまり、ここんところドタバタしていたNPOのフォーラムの間、お2人は大変だったのでした。お1人はその前に、看取られていたのです。そしてお2人は高齢の動物家族を看病しながら家を空けたのです。「いざとなったら、家に帰っていいよ、参加しなくてもOKだよ」その時は、2人の代わりをするつもりでいた私ではありますが、内心、そんなことにならないで・・・と思っていたのが正直なところです。

で、お1人のところのワンちゃん、もうお1人のニャンちゃんはフォーラム後に亡くなられたのでした。お2人とも、最後に立ち会えたのでした。ご冥福をお祈り申し上げます。

そんなことから考えました。私は、若いころは、何でもできると思い、予定通りに物事が進むと思い、多少の無理は平気で走ってきました。子どもはいないので、予定通りに以下なかったのは、自分の生理痛や手術の時ぐらい。あとは、予定以上に何かやらないと気が済まないたちでした。

実家を飛び出して後の家族とは、今、元気な夫と、今は亡き愛犬と夫の母親でした。

愛犬は、大型犬であったがために、具合が悪くなると、血便が出たり、吐いたり。その世話は生々しいものでした。でも、いよいよ最後は獣医さんからの連絡で、死を知ったのでした。私より、夫のショックが大きくてそれが私にはつらかったのでした。

夫の母親は、私は家族とあまり思っていなかったのでは、と思います。うちは結婚はしていないので、夫の大事な人だから、一緒に住む、私も手術に立ち会う、看病もするといったところだったでしょう。大きな手術を繰り返した義母が故郷に移ると、なんだかほっとした感じがしたものでした。それでも、手術後の体液の異臭や、浮きだす血管や、便の処理など、いろいろなことを体験し、そういうものなんだと知りました。

動物も人間も、身体は自由にはならない、何らかのことが起こり、不自由になり、やがて亡くなる。そんなことを考えるようになったのは、愛犬の死から、その後の義母の看病からだったかもしれません。その後、夫が手術などし、その時は私はパニックになりました。明日も同じ日がやってくると普通に思っていたのが、そうだ、夫は生身だったんだと、ここでもつくづく思ったわけです。

なので、動物の死は、重いのです。その看病から、身近な人達にはいろんな教えが伝わることになります。なので、人ならばなおさらということになります。それでも、私は姉が昨年亡くなったとき、「もうすぐ」と連絡をもらっても、ふつうに笑顔で他県でワークショップをやっていました。いわゆる、お勤めという感じの仕事ではない、フリーランスの立場ですと、「私の代わりはいない、休むことはありえない」とずっとそんな風に生きて来たからでしょう。

それが、歳のせいでしょうか?それとも、少しは人間らしく成長したのでしょうか?仕事よりも、もっと大切なことがあるのでは、と、ここ1~2年思えるようになってきたのです。なんで、もっと、何日も実家に通い、姉の病を看病しなかったのか、、、。それをいつも考えます。

そしていまや、姉、つまり自分の娘に先に旅立たれた100歳になる母が、ギリギリ生きている。食べる、排泄する、寝る。この生身の行為そのものも、難しくなっている。そんな日々ならせめて、最後まではそばにいてあげたいと思ったりするわけです。生身の生き物であると同時に、心もあるのが人。オムツになるのは仕方ないけれども、笑うのはできる。思い出話もできる。花が咲いた、天気がいい、なんて小さなことを一緒に喜べる。

こんなブログを書いている場合ではない、私がやっているボランティアの活動も、そもそも人間が人間らしく生きるための運動だったのでは?それなら、毎週配信するメルマガの一字一句の間違いを修正したり、時間通りに配信したり、ホームページ―を更新したり、zoomの会合を設営したり、そんな山ほどの作業は放って母のもとへ行ってあげたい、と、今この時も思いながらいるわけです。

愛犬の死から学んだ生き物は生身であるということ、義理の母と暮らしで知った生身の汚さ臭さしんどさ。夫の病を経て、姉の死も経て、今頃ようやく何が大事なことか。家族って・・・。遅まきながら分かりつつある今、選択を間違えないようにと思うわけです。なんだか、よくわからないブログになってしまいましたね。(笑)

でも、私が尊敬する神野直彦さんが、どんなに予定が入っても、高齢のお母様との時間を譲らない、と知り、私もそうしていいんだと思いました。そして、先日のフォーラムの分科会で福祉施設をやっているある方が、「預かっている高齢者が、いよいよ最後の時は、皆、家に帰りたがる。それを我々スタッフはかなえてあげたくて、自費で患者を家に運び、看病している。それなのに、その息子に連絡をすると(おそらく都会にいるのでしょう)『仕事が忙しく、予定も入っていて田舎に帰れない』とあっさりいう。それがその人の人生なのか。仕事以前に、稼ぎ以前に、まずは基に人生というものがあるのでは」とおっしゃっていました。

この言葉も私の胸に刺さりました。母親がいよいよの時なのに、私は世のため人のためと思い込んで、パソコンなど叩いている。こんなの人生ではないですね。もう、これは止めましょう。と決断宣言なのです。

※お花は手元にあった写真です。