「国栖奏」

ゆとりある記

奈良県吉野町南国栖に伝わる「国栖奏(くずそう)」という祭事に参加してきました。

吉野川岸壁に建つ小さな拝殿、わずかな敷地に人が集まり外側からは神事も舞も見えません。

でも、1600年前に発する歌舞だと知ると、雪の中に響く鈴の音が何とも荘厳に思えます。

にわかづくりの観光イベントなどとは無縁に、淡々とこの祭事を伝承している地域、人々に、神々しさを感じました。
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吉野町のホームページには「「国栖奏は、毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の天武天皇を祭る浄見原神社で古式ゆかしく行われます。早朝から精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が神官に導 かれて舞殿に登場し~略~」とあります。今年は、2月10日13時から行われたのでした。


雪模様、知人の運転に身を任せ、たどり着いた南国栖・浄見原神社。本当に小さな建物が崖の途中にかろうじてちょこんと建っています。

少し遅れ気味だったので、人の群れに囲まれて、拝殿の様子は見えません。傘やカッパが視界を遮ります。

それでも聞こえる、「国栖の翁~~~♪」という謡や、時々見え隠れする、クリーム色の装束、男性のゆったりとした手の動き、そして鈴の音。

だんだん、心が静まってきます。


ここにいる人たちは、地元の方々?民俗学などを学ぶ人?それとも歴史散策の方々?

いろいろな人たちが、足場の悪い中をびっしょり濡れながら鈴の音を聞いています。

「永遠」という掛け声のようなものが聞こえました。「永遠」と聞こえたのですが、次には「えんえい」と聞こえます。

どうやら「えんえい」が正しい。どんな意味なのでしょう?「三月、えんえい」「四月、えんえい」こうして一年を巡った後は、個人名が読み上げられて同じく「○○○○、えんえい」と繰り返されていきます。

「遠栄」永遠に栄えるという意味なのだろうか???と思っていると、雪の空から光が差しました。

“神っている、そんな場に私、いま立っている!”ここにきて自分が浄化されたようです。


祭事は1時間ほどで終わり、装束の男性は、お供え物や楽器を恭しく掲げ、足元の悪い階段をそろりそろりと降りていきます。

観光イベントではありませんから、メガホン持った人が解説するわけではないし、お客様席があるわけでもない、誘導もない。

見せていただけるだけでありがたいのですから、わかってもわからなくとも、良しとする。この空間に居られたことがうれしいと思えてきます。


人が崖の下に降りて行った後の拝殿、舞殿といった方がいのでしょうか、円座が並びます。

ここで毎年、ずっと同じことが続いているのですね。見物の人が居ようと居まいと、寒かろうと、雨だろうと。

同じことが粛々と。


町が立てた看板にはこんな説明が。
「~略~『古事記』『日本書紀』の応神天皇(今から1600年前)の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られた時、国栖の人々が来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の始まりされています。~略~さらに今から1300年ほど昔~略~大海人皇子(天武天皇)が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方し略慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。~略~」

そしてもう一つの看板には「謡曲 国栖」の説明が。


お供え物には、根芹、ウグイ、栗、一夜酒、赤ガエル(これは陶器製)などが並びます。


これも遥か昔から、同じものをお供えしてきたのでしょう。かつては本当のカエルをお供えしたのでしょうか?


参加者には、地元の方々が用意したお餅が振る舞われました。ありがたい丸餅です。


テントを張って、寒さの中をぜんざいを用意されていたご婦人たち。「ぜんざいが終わってしまって、すみません」と、お餅だけ振る舞ってくださいます。

「こうして漬物を挟んで食べても美味しいよ」地元のお米で搗いたお餅は噛むほどに美味しく、その心づかいに温まりました。


誰かが作った雪だるま、「国栖奏いかがでした?」と見送ってくれます。

若い女の子二人の後ろ姿がありました。地元の子でしょうか?平日だし、大学生でしょうか?

雪道を何か楽しそうに話しながら歩いていきます。

彼女たちの中に「国栖奏」はどのように残ったのでしょう?そしてこの国栖という土地が、どんな存在となったのでしょう?

神々しい時間を共にして、それは忘れられない思い出になったはずです。