足尾銅山跡

スローライフ運動

“跡”というのは物悲しいものです。城跡、学校跡、歴史や思い出に浸るならいいのですが、鉱毒ガスで自然や暮らしのなくなった銅山跡となると、かなり胸が詰まります。日光市の足尾銅山跡を訪れたとき、寒々しい気持になりました。

でも、植林の跡も見ました。苗はまだまだ大きくなっていませんが、未来に向けて人が動いた跡です。我々は何をすべきか!新しい足尾を感じました。

江戸時代に発見された鉱脈は、寛永通宝を造り、“足尾千軒”といわれる繁栄を築いたそうです。その後、生産は落ち込んだものの、民間の手で返り咲き1884年には日本一の生産量となりました。

しかし1885年には鉱毒被害報道が。精錬に必要な木材を付近の山から切り出し、さらに、精錬時に出る有毒ガスとそれに伴う酸性雨が木々を枯らしたといわれます。木々だけでなく、土壌も、人の身体も、村も・・・・。

これは、日本の近代化、経済成長を急いだ日本の各地で起きた、いわゆる公害と同じ質のものです。つい先日、今の“福島”と“足尾”を同じく論じる大きな新聞記事を見ました。確かにそうかもしれません。

実際に山の中に入ると、今でも山肌はガレキ状態。植物の生えていない山は、カラリカラリと音を立てて崩れているようでした。まるで清流のように崩れた石たちは、乾いた一直線の流れを山肌に造っています。

普段目にしていないだけで、こんなところが、今でもこんな風なままであったんだ。というのが素直な感想です。東京のきらめくにぎわいと、その発展の基礎を創るためにガレキになってしまったところとが、今このときも同時に存在するわけです。

知らなかったら済んだのに、知ってしまった以上どうするの?と山から問われているような苦しさでした。
そんな時、すくわれたのが植林の風景でした。よ~く見ると、山の上の方まで。調べると1897年から植林が始まっているのだそうです。それなのに、見た目まだ禿山というのは、それだけ土がやられているということなのでしょうか。

ヤシャブシの木は毒ガスに強かったとか、植林された苗の手前で以前からあったようなヤシャブシが枝を広げていました。

足尾では今、植林はもちろんのこと、環境学習を全国から受け入れたり、銅山跡を観光資源にしたり、新しい動きがずいぶん起きています。負の遺産を、世界遺産に登録しようという動きも。

足尾名産の山椒の葉と実を使った「山の薫りのウインナー」が売り出されたり、特産の山椒を使った山椒料理のお店「さんしょう家」が開店したり。http://nikkokekko.blog121.fc2.com/blog-entry-141.html。

閉山後、どんどん人のいなくなったまちの空き家を、若い芸術家が創作に使っているという話も聞きました。

傷ついた分、人は強くなるのでしょうか。足尾が世界に向けて、環境と自然の大切さをアピールする発信地になっていくような気がします。環境観光という形で、私たちはそのお手伝いができるのではないでしょうか。

語り合いましょう。2月10日の「スローライフ・フォーラムin日光」足尾分科会へお運びください。↓
http://www.slowlife-japan.jp/modules/katudou/details.php?blog_id=13

※植林が行われている荒れた山々、村の跡などは、私有地。ゲートがあって基本は入れません。撮影も禁止。というわけで、鹿の足跡の写真を載せます。