スローライフの紡ぎかた1「筑紫哲也さんと」

スローライフ運動

 

その日は、とても暑い日でした。2001年7月14日から9月30日まで開催された「山口県きらら博」のある日のこと、宇部空港を降りてからその会場に向かう途中の食事処で、頼んだアサリの酒蒸しを吉永みち子さんとせっせと口に運んでいた筑紫哲也さんの姿を記憶しています。

 今、スローライフ・ジャパンの理事長である川島正英さんがこの博覧会に一部アドバイザー的にかんでいて、開催前と開催後と、何人かの有識者を送り込んでいました。そのある回に、私はたまたま筑紫さんと一緒になったのです。

 それ以前に筑紫さんと会っていたのかいなかったのかはもはや記憶がありませんが、このときのことはよく覚えています。日も後ほど調べればわかるでしょう。家族連れも多いこのご飯屋さんで、出がけに筑紫さんは大きな牡丹餅を二つ買いました。

「今夜、原稿を書かなきゃならないから」つまり夜食です。「でも、暑いからすぐ悪くなりますよ。会場に着いたら冷蔵庫に入れておいてもらいましょう」と私。そんな会話をしたものです。

 会期中に250万人以上の入場のあった催しです、この日も会場はごった返し、ご案内をされているはしから、皆、汗だくでした。当時私はまだ着物はときどき着る程度、この日はノースリーブにミニスカートと裸同然でしたが、暑さだけが思い出に残ります。

 ホースセラピーを提唱されていた吉永さんと一緒に、筑紫さんは、子供たちの乗馬体験コーナーでずいぶん時間をかけてその様子を眺めていました。その後、暑さから逃れるように入った、外より涼しいベコニアガーデン温室で食べた、アイスクリームのおいしかったこと。

 さて、そしてこの日の、夕食のときのことです。今、副理事長である瀧栄治郎さんが、京都から食事の席に参加されました。彼が小脇に抱えていた資料はニューズウィーク、スローライフを特集した記事でした。

 川島さんと瀧さんは、このスローライフという考え方を何とか運動として日本で展開できないか、この山口に筑紫さんが来るのを機会に説明しようとしていたのです。

 説明を聞いたそのとき、即、「いいじゃない、やりましょうよ」そんな反応で筑紫さんが賛成しました。この日、このときが、わがNPOスローライフ・ジャパンの出発でした。

 名前も組織も当然まだなかったのですが、とにかくこの日本を何とかスピードダウンさせなくては、もっとゆっくり本質的な生き方をするような世の中にしなくては、とそんな話が食事中に広がり「スローライフだよ、スローライフ」と、何度もことばが飛び交ったのでした。

 私は多少興奮しながらも、筑紫さんの座布団の横、畳の上に広がった「スローライフ」という文字のニューズウィークを眺めていました。初めて聞くことば、そして、何だかとてもズシリ重いこと。自分が目指してやってきたことは、すべてこれだったのではと肌がザワザワしてきます。

 大人たちが、学生の議論のように熱くスローを語っているそのスピードに乗っていくのが精一杯ながら、自分のかかわっている静岡県掛川市の生涯学習のこと、静岡市での商店街活動‘一店逸品運動’のことなどを、ちょっぴり発言していました。

 スローライフ運動を起こそう!と決まった日の夜、筑紫さんはおそらく冷蔵庫で固くなった牡丹餅をかじりながら原稿を書かれたのでしょう。夜中になる少し前、ホテルのバーでまだ飲んでいるみんなのところに顔を出しました。

 冷房で冷えたためホットワインを注文する私に、「うまいの?そんなの」といいながら、ご本人はコーヒーをすすっていました。

 筑紫さんが亡くなって、2日経ち、以前からずっと書こうと思ってきたこれまでの「スローライフ運動」のことを、今日から書き始めようと思います。

 いずれ整理するつもりなので、文章はめちゃくちゃ、かつ、データも甘いのは承知のうえ。とにかく書きましょう。書きましょう。

※写真は私が始めて見た「スローライフ」の文字。この日の資料です。(「NEWSWEEK 2001.7.4」)"