北谷忠弘さん逝く

お仕事で

十津川村谷瀬集落の元総代。初めてお会いしたとき、正直「こんな田舎に、こんなすごい人が!」と驚きました。それは私が、優秀な人は東京にいるという間違った思い込みでいたからでしょう。知性と感性の塊のような方。寄合での私の乱暴な意見に笑って頷き、ワークショップは自ら楽しんで、柔らかく皆を導いてくださった。移住者や子どもが増えた集落を、ずっとお見守りください。

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吊り橋で知られる谷瀬。私がここに通い始めたのは2012年度の終わりごろ。奈良県の仕事で地域住民参画による集落づくり計画のお手伝いででした。2011年の「紀伊半島大水害」で村は相当な被害を受けていました。何とかしなくては、という機運が高まっていたのです。

2013年の冬にはワークショップをしている写真が残ります。(中央眼鏡の方が北谷さん。奥で立つのが私)総代・北谷さんは「こんなワークショップをしましょう」と私が提案すると、「ほう、ええなあ」となんでも賛成してくださいました。いつもジーンズで、ロングの白髪がかっこいいおじさまでした。

 

2013年11月24日奈良県川上村で開催の「スローライフ・フォーラム」で、県南部の「むらづくり事例発表」として、「吊り橋に続く“ゆっくり散歩道”」プロジェクトを北谷さんは発表されました。(後列中央)私がお手伝いしてみんなで作った計画です。舞台袖でこの発表を聞いていて、私は鳥肌が立つくらいの北谷さんの覚悟を感じました。語り口は北谷さんのソフトなものですが、武士が己の命を懸けて・・という雰囲気だったのです。

忘れられないスピーチです。お弔いの気持ちでここに全文を掲げます。

「谷瀬は、五条の方から来た場合の十津川村の玄関口です。日本一の長い吊り橋があり、観光的には有名で、安全で、自然は美しく、人情も厚いところです。共有財産が共有林という形であり、それを中心に連帯性と協同性のある人たちが暮らしています。日本一の吊り橋を自分たちのお金でかけた、伝統があります。30年前から吊り橋が有名になり、観光客がくるようになリました。私たちは『吊り橋茶屋』をつくり共同で経営し、順番で店番をしています。特産品の『ゆうべし』も『むら』でみんなが集まってつくっています。マツタケもむらに生えるので、生産組合をつくり出荷しています。しかし、過疎は進んで老人ばかりとなり、現在26世帯44人。死んだ人の補給ができないむらになっていて半分諦めている状態でした。そういう中で、何とかもう一回谷瀬を盛り返そうじゃないかというのが現在の取り組みです。私たちは、これまで観光客は吊り橋までで、むらの中へ入っては困るという姿勢をとってきました。が、そうやっているともうむらは守れない。これからは外部の人の力を借りてでも、むらを守っていきたいと思っています。何度も寄り合いを持って話をまとめました。まず、谷瀬の状態を知ってもらうということが第一と、むらの中心にある森山神社までの散歩コースをつくろうと取り組んでいます。みんなで道の周辺に花を植えたり、看板を立てたりしています。茶屋にも新しいメニューを、森山神社に絵馬を、展望所をと、そういうことが主な取り組みです。コースを決定するに当たっては、みんなで歩いてもみました。外部の人たちが散歩コースを歩き、谷瀬に触れて、むらの人たちと話をしたりして『いいところだなあ』と思い、『ああ、ここに空き家があるな。ここに私たち、定年になったら越してこようかな』ということになったら、私たちの計画はうまくいったということになります。むら中に桜の花が咲く春、来年の4月には谷瀬の人たちの夢を乗せてこの散歩道がスタートします」

このスピーチの後、谷瀬の方々は、皆でコースを決め、歩き、マップなどをつくり、道を整備し、立て看板を立て、2014年4月6日に「ゆっくり散歩道」をオープンしたのでした。テープカットの後、花咲く道を歩いたみんなは、公会堂で名物「めはりずし」を食べて直会をしました。「なおらい」という言葉が今も使われ、めでたい時には室内でも餅まきをする谷瀬です。これが本物の人の繋がり、むらの暮らしと私はここで教えてもらいました。

その後、寄合ごとにやることを上げ、皆で役割分担をして整備をすすめ、大学生の若い力も借りながら、展望台、水車、休憩所「こやすば」「田舎体験ハウス玉岡」などが整えられていきます。

2019年には北谷さん念願の加工所「つくりば」も出来ました。「こやすば」「つくりば」の看板は、ともに北谷さんの作です。

北谷さんはお酒がいけるくちでした。というよりご自分で「のん兵衛」と名乗っていました。そのためか、冗談のように語られていたお酒造りにも腰を上げます。2015年から酒米をつくり、2016年には「純米酒谷瀬」が出来上がります。

酒酒造へ出掛け実際にコメにも触ってお酒を仕込みました。必ず現場には、北谷さんの姿がありました。(手前左)お酒の名前を決めたり、ラベルを考えるにも、いつも北谷さんは原案を具体的にお持ちになりました。持ち寄った案の中で投票で決める、谷瀬集落寄合のやり方です。北谷さんの案に決まらなくても、いつもの「ほう、ええなあ」で穏やかに笑っておいででした。「この酒は、本当にうまいのよ」と「純米酒 谷瀬」にぞっこんだった、北谷さんの飲みっぷりを思い出します。

もともと美術の先生だったとか、北谷さん作の谷瀬の絵葉書があります。大きな絵をいくつも描かれ、海外にも取材し、アトリエにお邪魔すると素晴らしい作品が並んでいたものです。そのアトリエの並びを、集落の「高菜漬け」の樽置き場にされたり、水車づくりの作業場にされたり、アトリエはむらづくりの創作の場にもなっていました。(下右が北谷さん作の絵葉書、左は奈良女子大生の作品)

奥様と本当に仲がよく、ご一緒に寄合にみえたのは、2018年3月が最後。この日も古い昔の写真を熱心にご覧になり、これはどこだ、そっちは誰だ、と教えてくださいました。谷瀬の暮らしを知る昔の写真は「こやすば」に展示されています。

寄合にお姿がなくても、「ゆっくり散歩道」に観光客が行きかい、移住する人が一人、また一家族、二家族。子どもが、一人、また一人と生まれて、集落に人が増えていく実感と手ごたえは感じておいでだったと思います。「ええなあ」とおっしゃって。

北谷さんの覚悟のスピーチのときに44人だった集落は、いま71人になり、8人の子供たちが花の谷瀬を駆け回っています。北谷さん、ありがとうございました。