山沢栄子写真展をみて

ちょっとしたこと

日本の女性写真家の草分け山沢さんは、27歳単身で貨物船に乗りアメリカへ。写真を学び帰国後、活躍します。

晩年のVTRが会場に流れていました。外国の取材陣を前に、自分の70歳代の抽象作品をみながら「これもNO、NO!」とダメ出ししている88歳の姿でした。

彼女は96歳で没しますが、果たして私は最後まで創作をし、こんな厳しい生き方ができるのか?背筋が伸びる思いでした。
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私は昔からどなたかの個展などにうかがっても、作品よりもその作品を作られたその作者の人生に興味を持ってしまうタイプです。なので、作品より年譜を長く眺めていたりで、同行の夫に怒られたりします。

訪れた東京都写真美術館、今回もそうでした。1899年大阪に生まれた山沢さんは、1926年に渡米、当初は油絵を学ぶつもりでした。貨物船に乗って1人海を渡るときに、海に向かって話しかけたそうです。大きく希望は膨らんでいたものの、さぞかし心細かったことでしょう。「この時から私は自然と話すようになった」との言葉がありました。


アメリカに渡ったものの、実家の父親が亡くなり、働きながら学ぶことになります。その働いた先が女性写真家コンスエロ・カナガののところでした。この5歳年上のアメリカ女性から写真技術を学びます。そして、3年後には、絵よりも写真を身につけて帰国しました。

必死なときに出会った人からは大きな影響を受ける、彼女は短時間ではあっても生涯の師と仰ぐカナガ女史と出会えたことがラッキーだったはずです。もともと絵画志望だったということが、彼女の静物画のような作品から納得します。


大阪に写真スタジオを開き、ポートレート写真を撮って活躍します。当時の実業界の大人たちが、アメリカ仕込みの女性写真家に写真を撮ってもらうことを喜んだはずです。

彼女の言葉に、「写真は女だからといって安くはならない。男も女も同じ値段。今の日本は女性というだけで賃金が安く、たいした仕事が無い。写真技術においては平等だ」というようなことがありました。これは私のうら覚えですが、意味はあっていると思います。

当時、「職業婦人」として珍しがられ、「女だてらに」スタジオをもち、といわれた山沢さん、今からは考えられないほどの先駆者としての苦労があったはずです。

ポートレートは作品でない。そうみると、中年以降になって作品らしいものが出てきます。その中でも今回の展覧会の中心となる「私の現代」という作品群は抽象絵画のような作品。山沢さん70歳代~80歳代の作品です。色の鮮やかさや、発想の豊かさは若いアーチストのものかと思わせます。一方、これも写真なの?という気持ちにもなりました。

私が印象深かったのは、戦時中疎開していた信州で撮った写真。ポートレートではなく、当時の地元の人々の暮らしや素顔が映っていました。彼女はもと豆腐屋さんが使っていたという工場に住み、そこに引かれていた豊富な湧き水を使って、写真作業をしていたようです。フィルムや印画紙の水洗に水がありがたかったのでしょう。

女優・山本安英の写真も興味深いものでした。山沢さんは山本さんと親交があり、彼女の写真をたくさん撮っています。信州に疎開していた、山本さん、木下順二さんの若い姿が清々しい。

「私の現代」の抽象表現で世界的に知られる山沢さんが、外国の記者からインタビューされている4分間のビデオ。当時、老人ホームに暮らす88歳の山沢さんはかくしゃくとしています。関西弁だからか、元気な男おばさんのような感じです。その勢いある話し方で、10年前くらいの作品を、「これはダメだね」というかのように、首を振りながら「ノー」と言って作品集のページをめくる。きっと今ならもっといい作品を撮れるという気持ちなのでしょう。

さて私はどうする?こういう人を前にただ「ご立派!です」などとなまっちょろいことは言えません。96歳で亡くなるまで、山沢さんはきっと何らかの創作を続けていたと思います。私はできるか?何をするのか?どう歩むのか?代表作を70歳代に作るのなら、さあ、これからだ。年の初めに、ずしんときました。