被災支援をおかみさん視点で

ちょっとしたこと

南三陸町での「ニッポンおかみさん会全国フォーラム」、コーディネーターとしてお手伝いしてきました。

被災したとき、支援するとき、共に女性の視点が役立つという話。

「掃除機はダメ、箒と塵取りが活躍」「その場ですぐ食べられる夏みかんが喜ばれた」「菓子は小分けして多種類に」「化粧品は大事」など、

小さいことですが集めれば立派な本になるような、体験談が披露されました。
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全国から集まったおかみさん達約200人、自営業の方々が主です。もちろん男性も含まれています。おかみさんでなくてはいけないというわけではなく、これまで続いてきた男性中心・東京中心の効率的な、行政主体のまちづくりなどに、アンチの姿勢をもち、自分たちの力とネットワークを信じて行動する人たちの集まりだ、と、私なりに理解しています。

前半は南三陸ホテル観洋のおかみさん阿部憲子さんのお話。この方は、震災後600人を超える被災者をホテルに受け入れて世話をしたことで知られます。

つい最近は、「南三陸てん店まっぷ」を作られ、この活動は受賞もしています。


ホテルでは、被災地を巡る「語り部バス」を希望者一人からでも出して、震災の記憶を語り継ごうとしています。

彼女のスピーチで、印象深かった言葉をいくつかご紹介しましょう。

「父はチリ津浪で一文無しになりました。ホテルを建てるなら高台の地盤の良いところと、ここを選びいました。おかげで、今回の地震では建物は倒れることなく、津波も2階まででした。
震災直後から、着の身着のままの方々がホテル目指して避難しておいででした。お客様の衣食住をお世話するのが宿泊業、泣き続ける皆さんを前に、この方々のお世話をしなくてはと思いました」

おかみさんは、その懐に飛び込んできた人たちを抱きしめるお母さんのような気持ちだったのでしょう。

「避難生活が続くと、子どものいる家庭では、教育のことが心配になってくる。塾もピアノ教室も皆流されてしまったのですから・・。なので、ホテルに集まった本で図書コーナーを作りました。居る人の得意分野を活かしてソロバン塾をやったり、英語教室をやったりもしました。引きこもりにならないようにコンサートや編み物のワークショップなど楽しいこともたくさんやりました。復興なんて何年先になるかわからない中で、子どもが英語を少し覚えた、孫がソロバンできるようになった、そんなことがうれしかったんです。今もソロバン塾をしていますが、全国大会に行った子もいるんですよ」

子どもが元気になって前に進むこと、それで大人たちは励まされていったのでしょう。おかみさんは自分の子や孫のことのようにうれしそうでした。

「観光業はすそ野が広いので、うちがなんとか続けていると、地元の業者さんが『店は流されたけど、市場で仕入れたものを直に届けるよ』などと商売を始めてくれました。子どもが居なくなること、経営者が居なくなることを避けたかったんです」

そして、おかみさんは路地裏や高台などで細々とお店を始め、点々としているお店を紹介するマップを作ります。

「商店街などないので、来訪者にお店を知らせたかった。すると地元の方々も、自分の馴染みだったお店がこんなところで営業し始めていたのか、と知ることになったのです」

地元のお店がどこにあり、買い物ができるという日常的な情報をまとめてマップにする、まさに生活者の視点でしょう。おかみさんは今まだ復旧していない、気仙沼線のが元通りに走ることを望みます。確かに、もっともっと南三陸にお客様がやってくるには、鉄道は不可欠でしょう。

今、仙台からホテルまで直行のバスを設け、語り部バスも出すおかみさんは、全国の人と南三陸を結ぶ糸を自力で何とか繋いでいるように見えます。ぷつんと切れないように、何とか応援を、と心から思いました。

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その他、何人もの方が体験をもとに語りました。

自分のところに届いた2トントラック2台分の物資を、被災者から被災者へ提供会をやった方。この活動を通して300人の人と繋がることが出来たとのこと。

「みんな会が終わっても帰らないの。物よりも情報がほしかったんですね。私の活動を知って避難先で地元の人が『1人じゃないよプロジェクト』をつくてくれました。これがうれしかったです。みんなから頑張ってとか泣かないでと言われて辛かった時に、『1人で泣かないで』という寄り添い方がうれしかった」

中越地震の経験を語った方もいました。どうしようと思ってるときに、他のおかみさん達から「支援するよ」の言葉をもらい、こうしてはいられないとできることをやろうとしたそうです。

「箒と塵取り、懐中電灯を買って、困っている人に届けました。箒と塵取りなんて基本的なものですが、これが意外に家庭になかったりしました。ガラスを履いたり停電時に片づけたりとても役に立つんです」

彼女は南三陸の被災には支援に回りました。全国のおかみさんに呼び掛けて着物を集め、和装小物も集め、被災した方に着ていただき写真を撮る活動。

『晴れの日記念日思い出づくり』応援プロジェクトです。綺麗な恰好をして、まず笑おう!こういう発想はなかなか男性では思いつきません。

「写真も着物もなくなったしまった人が、喜んでくれて。肩を落としていた若いお嬢さんが振袖を選び、メイクして髪を結って写真を撮るときには明るく笑っていたんです。それが忘れられません」

男性でもきめ細やかに活動した方はたくさんいます。仙台から支援物資を運び続けた男性は、南三陸の魚屋さんが被災後すぐに看板を揚げた心意気に打たれたと言います。

「でも、自分のようなよそ者が入っていて、受け入れてもらえるのか。かえって邪魔なのではと、ずいぶん悩みました」と。

そういうデリケートな感性がある方だからこそ5年経った今も、活動を続け、被災地と一体になれるのでしょう。指定避難所には物は届くけれど、工場や一般家庭、集会所などの被災者には物が届かない、彼はその隙間を埋め続けたのです。

「南三陸の三浦さんという魚屋さんに教わりました。『自分は商売人だから支援物資でも手にした人が喜んでもらえるように工夫したい』と、彼は飴やお菓子を一度全部袋から出して、それを少しずつ袋に入れ直して詰め合わせにするんです。『このひと手間でもらった人は喜ぶ』って。一番女性らしい?活動を彼がしていたのでは・・・」

なにが女性らしい、と議論したらキリがないかもしれませんが、小さなことでも手間を惜しまずに、ということなのでしょう。行政だったらこんな面倒なことはできません。スローライフ的ともいえます。

融通の利かない、行政批判は何度も上がりました。

「企業からいただいたおもちゃを行政に届けると、公平に同じものでないと配れない、なんて言われて」

「洗濯できないんだから、タオルがいくつでもほしいのに、名入りタオルは宣伝になるから配れないとかね」

「被災後、何処に誰が居るのかわからないのに、『早く住民でまちづくりプランをまとめてくれ』とか」

行政だって被災しているのですから、経験もないのですから、混乱していたとは思いますが考えてしまいますね。

そういう延長上に、マニュアル通りにしすぎて、子どもたちを結局津波から守れなかった避難できなかった、という小学校の悲劇も出たのでしょう。

「みんなレトルトを食べているときに、掛川のおかみさん会から届いた道の駅一軒分の野菜・果物は感激でした」

「刃物を使わず食べられる、夏みかんをたくさん送りました」

どんどん出る、こんな話は参考になります。洗濯のボランティアの人たちが、洗濯物をバックするときに手紙やおもちゃを添えた。お手玉だって、支援物資になる。等々、話は尽きません。

記憶が残っているうちに、これが良かったということをかき集め、本などにしたらどうかと思いました。

なぜなら、日本中が何時でも被災地になりうるのだし、これまでの物差しで画一的に進めようとする行政や男性的な発想は根強いのですから。それとは違う、しなやかな生活感ある工夫はどんなにたくさんあってもいのです。

どなたかが言われていました、米粒一つは小さいけれど集まればおにぎりになる。

おかみさん、女性たち、権力志向でない男性たち、ますますネットワークを強めましょう。

志のある人のつながりは、どんな堤防よりも私たちを守り、この国を救うのです。

(私が一番左に写るシンポジウムの写真は、事務局からお借りしました)"