実家というもの

ちょっとしたこと

私は高校を出てすぐに千葉の実家から離れ、ずっと自活してきました。その間、実家との距離は様々変化しています。

昔は実家は私を拘束するところ、だから近づかない、自分の居場所も教えないひどい娘でした。

東京を離れた30歳代、少し落ち着くと、急接近。貧乏暮らしに援助物資をいただけ場になりました。

そして今や、96歳の母が居るというだけで、心が温まる場になっています。
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私が小学校のころ、海が埋め立てられた千葉市検見川町は、かつては東京湾の漁業が盛んな土地でした。アサリやアオヤギ、カレイ、ワタリガニなどがとれ、海苔の養殖も盛んでした。漁業組合まであったのですから、驚きです。

そんななか、当時越境入学で違う町の小学校に通っていた私は、大きなランドセルを背負って姉と京成電車で3つくらい離れた駅まで通学していました。中学、高校とこれまた電車で市川市まで。ずいぶん京成電車には乗ったものです。

小学校帰り、検見川駅から家までのデコボコのアスファルトの道沿いには四角に漉かれた海苔が干され、近寄ると海の匂いがして、パリパリと海苔が乾いていくかすかな音がしていました。道路の両側には溝があり、どぶ板がはめられていて、その上を歩くとカタンカタンと音がしました。そんな時代です。

いまや人通りはないこの道ですが検見川商店街はそのころ賑わっていて、その一軒の薬局では母働いていました。中学の頃は帰ると、着替えて自転車に乗り、商店街をのぞいで買い物し夕飯作りをするのが私の日課でした。

今回歩いてみると、まだ漁業をやっていた頃の建物がいくつか残っています。昔は各家を屋号で呼んでいましたっけ。


写真の少し向こうに見える緑が我が家に入る門の松の木。小学校の頃は、行ってきますと歩きはじめると、母はここで私が見えなくなるまで手を振っていました。

今から思えば、平和な家庭で、キツキツの収入のなか、ずいぶん私たち姉妹のために学費を納めてくれたと思います。が、そんな平和、平凡さが嫌になったのが高校時代。学生運動に影響されて、在学中からデモなどへ。

卒業後、その延長で家を出ます。親の世話になっていて、社会的な発言などできない、という当時の短絡的な考えからでした。

逃げ回るように疎遠にしていた実家には、今の夫と暮らすようになって顔を出すようになります。苦しくなると静岡県から車を飛ばし、実家へ。そして、お米やお小遣いをもらって。そんなおぼつかない暮らしを続け、ようやく何とか自分の好きなことで暮らせるようになっていきます

。勝手にいなくなって、再び勝手に行き来を始めて、本当にどうしようもない娘です。

その実家からある日電話があり「もう、泊まりに来ても、泊まれる家はないわよ」と母。???と思ってら、もらい火でそれまでの家は全焼したのでした。私が子どもの頃暮らした家の面影は、他界した父の植えたこの梅の樹だけです。


姉夫婦が再び建てた家。実家という印象は薄いのですが、それでも入ると実家の匂いがします。

今年からは玄関にスロープが着きました。「おばあちゃん足が上がらないから、これならゴロゴロを押して自分で動けるから」と姉。最近はこういうのがレンタルであるようです。

母の世話など何もしない妹に比べて、実家を継いだ姉の対応は完璧です。

もう96歳の母ですが、お正月になぜか普通の卵焼きの甘いのを作ることは相変わらずで今年もありました。それを食べながら、思い出話をします。「お父さんは大声上げて怒ったりしなかったけね。お母さんは私の手術のときよく一人で静岡まで来れたね。火事のとき貰い物の服で過ごしたね。私はずいぶん迷惑かけたね」

こちらは細かく覚えているのですが、母は「お母さんみんな忘れちゃったわよ。いまは毎日過ごすだけでせいいっぱい。この補聴器いいのよ。あんたもそのうちするんだからよく見ておきなさい」」と。

私のわが身を振り返る山ほどの反省ごとなどどうでもいいという感じでさっぱりしています。

母の部屋からえんがわ越しにかすかに手を振る母と別れ、戻って来たお正月でした。

山ほどいただきものを担いで帰りながら、実家とは、自分のこれまでを振り返る晒し場のようなところだと私は思うのでした。母は忘れても、こちらが覚えている以上、懺悔しに顔を見に行きましょう。

なんて思っていると母から電話。「トコ、あんた手袋と帽子忘れたわよ。まったく、気をつけなさいよ!お母さん使っちゃうわよ」

母元気です。