地震用心

ちょっとしたこと

何が嫌いかって、地震が一番嫌いです。それがこの9月「関東大震災と東京の復興」展と、あの竹久夢二の「東京災難画信」展を見ました。地震の科学的な面はさておいて、こうした大災害時における人間の“ふるまい”を考えさせられました。即、都市の復興を発想する人、地べたに座って数本の煙草を売るしかない少女。さて、私はどうするか。怖がってばかりじゃしょうがないですね。

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東京日比谷の市政会館でひっそりと開かれていた「関東大震災と東京の復興」展。地下の会場に入って即目立つのは、「尋ね人係」の提灯でした(レプリカ)。いまなら伝言ダイヤルがありますが、1923年当時はこんな提灯が掲げられたのでした。説明には「東京市政調査会と帝国大学の学生らにより日比谷公園に避難した人達の名簿作りを行った際に立てられた」とあります。突然の大地震、火災で公園に逃げこんだ人達の中に、もしや肉親がと探した人たちが頼った灯りだったのでしょう。

関東大震災の死者・行方不明者は10万5000人と言われます。その多くが火災により犠牲者。そんな中、震災翌日には新内閣が発足し、猛火の中で閣議が行われたとか。壊滅的な被害から復旧させるだけでなく、復興し、首都東京にふさわしいまちづくりをこの機に進めよう、となります。その先頭に立ったのが、有名な後藤新平でした。

復興事業の内容を予算規模が分かる円で示した図です。まず道路、区画整理、橋だったのですね。隅田川に架かる橋は10橋。それを最新技術で掛けかえ、堅牢で、デザインの違う美しいものにとした。今も使われているものがある。よく、こんな時の都市計画に、美しさも入れ込んだと思います。

啓発パンフレットにはこうあります。「市民は~~たえず緩む心のねじを巻かねばなりません」これは今も全く同じことになります。

震災からの復興を大所から考えた振り返りの展示を見た後は、近くの中日新聞ビルで、竹久夢二の実に個人的な視点によるレポートの展示を見ました。「東京災難画信」~哀愁の素描画 深い無常観描く~とあります。夢二は、震災後、カメラを持って街に出て、心に焼き付いた事々をスケッチと文で伝えました。

なまなましくも客観的な新聞報道記事に囲まれて、夢二の文章は個人の、深い悲しみや願い、感傷が伝わります。実に人間的なルポになっていました。配給に並ぶ人にカメラを向けると並んでいる人から非難する視線が、恥ずかしい顔をする人も・・そんな観察を彼はしています。

「歩み疲れ思い労れた無宿の旅人が、知るも知らぬも黙々と座っている。~死んでいた方がよござんした~命だけやっと持って逃げだした人は、~みな一様にそう言う」

そこに描かれた人々の、泥のように疲れ果てて座る様子は、やはり、文章でも、もしかしたら写真でも伝えられない。夢二の絵の力量だろうと思えました。売るものがなく、ほんの少しの煙草を売ろうとして座る少女の姿もからも、どうしようもない天災とちっぽけな人の存在の比較を見てとれます。

「新橋の芸者屋の立ち退き先を手帳に書き止めている紳士」に注目して記事にしている夢二は、おもしろいし、こんな時にも人はそんなことをする、ということに思わず笑いが出ます。

 

そして、私が一番気に入った絵は、お月見の後ろ姿。大震災の直後にも、ススキの横で親子がお月見をしている。本当に、そういうことがあったのでしょう。これが真の復興なのではと思えます。どんなに巨額を投じてハードが復興しても、生身の人の心が前に向かわなくては何にもならないわけです。私はどうなるのでしょう?どんな危機でも、大きな決断に、社会的な動きにまい進できるのか?そして一方で、お月見もできるのか?と考えます。

“ふるまい”として、断じて許せないのは、朝鮮半島の方々を虐殺したり、震災に乗じて無政府主義者を殺したり、デマを流したり・・・。そうならないように、日頃から心構えをしなくては、そういう用心をしなくては、と思うのでした。