母の生家が消えた

ちょっとしたこと

数か月ぶりに千葉の実家に行くと、母の生家の古い家が消え、更地になっていました。住んでいたが母の甥が亡くなったため、その息子さんが処分したのです。近くに住む母は、自分が生まれ育った家が壊される様子を毎日見ていたのでしょう。「しょうがないよね」と97歳は柔らかく笑います。昔はすぐ近くまで海があったまち、更地には、貝殻の混じった砂土が広がっていました。

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私の育ったのは、千葉市の海辺、田舎町。東京湾が埋め立てされる前は、海苔や貝で生計を立てる家がまだ多かったものです。今や人のいない商店街ですが、この道のどぶ板をカタカタならして、ランドセルを背負って通学しました。道路の両側には、海苔が干してありました。

戸をあけてすぐ入れるこんな構造の家がずらっと並んでいました。ところどころにある作業場では、トリ貝・赤貝・アサリをむき身にするおばちゃんたちが並んで精を出す姿が見られ、見とれていたものです。毎日多量の貝殻が、そこらへんに積まれていました。

母はこのまち生まれ、父と結婚し、姓は変わりましたが、お婿さんをとったような形で、自分の生まれた家に暮らしていました。なので、母の生家は、私の生家でもあるのです。この松が目印の家で、私は小学校くらいまで暮らしました。

この縁側では、植木屋さんがお茶をしたり、母の母、つまり私のおばあちゃんが近所の人と話したり、躾のできていない黒いコッカ―スパの糞の始末を私がしたり、そんな記憶があります。

この中庭ではよく遊びました。池の周りの石に乗ってはいけないというルールを破り、歩いたがために、石が動いて池が漏るようになってしまったり。何度も水のなかに意図的に落ちたり。

母の母、おばあちゃんが私の肩につかまり、この渡り廊下をゆっくり歩いて、食事に左の離れに行ったものです。そうそう、父が時々出してくれる、池の噴水に虹がかかるのがとてもうれしいものでした。

母の父、つまり私のおじいちゃんが置いたというこのカエルは、おままごとのストーリーによく登場したものです。こうして私でさえ、沢山の思い出のある古い家ですから、母にとっては思い出の塊だったことでしょう。

下が今の写真。更地の向こうの三角屋根が現在の私の実家です。母が居るのは一階の右の窓の部屋。工事の様子を毎日見ていたことでしょう。

建物がなくなると、土地は結構狭く見えます。でも、今時にしては広い土地でもあります。もう次なる使い方が決まっているとのことでした。

掘り起こした土にはおびただしい貝殻が混じっています。まるで貝塚のようです。母と私の思いでの破片のようにも思えます。なんとかあの古い家を活かせなかったか?私が住んでカフェにでもできたのでは?なんて思っても、出来たはずはなく・・。少々さみしく、あっけないなあ~、とぼんやりたたずみました。

でもフクシマの人、ウクライナの人はどうでしょう。自分の意志ではなく、納得いく理由もなく、突然、家や店ががれきに、更地になってしまっている。命まで落としている。そう考えると、なんと幸せな更地なのか、と思えます。記念に貝殻を拾ってきました。