大テーブルさようなら

ちょっとしたこと

私のNPO事務所が引っ越しでした。今度の事務所は超コンパクト、思い切って断捨離です。20年以上使ってきた大テーブルともお別れとなりました。掛川市での最初のスローライフ・フォーラムから、昨年の丹波篠山市まで、毎年のフォーラム作業をこの大テーブルでしてきました。筑紫哲也さんと最後に会ったのもこのテーブル。たくさんの思い出を残し、テーブルは、廃棄となりました。

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長さ3メートル、幅1.3メートルの大テーブル。私が初めて会ったのは、NPOができる前、NPOの川島理事長が霞が関に地域活性化研究所という事務所を構えていた時でした。静岡かから訪ねた私は、応接兼会議室のこのテーブルで丁寧に出されたお茶をおいただきました。大テーブルはその事務所がオープンしたとき、お祝いとしていただいたものだそうで、8脚の立派な椅子とセットになっていました。そしてここで、2000年ころからスローライフ運動が始まったのでした。

2002年、静岡県掛川市で「スローライフ月間in掛川」が行われ、フォーラムも開催されました。当時私は静岡からこの催しに参加していたのでした。

その後、事務所は千代田区六番町のマンションに移転し、大テーブルはここの応接に収まります。この頃には、特定非営利活動法人スローライフ・ジャパンが設立されます。私も静岡から通いながら、この事務所の大テーブルで仕事をしました。

2003年 岐阜県多治見市、新潟県安塚町、岐阜県岐阜市、埼玉県草加市、兵庫県神戸市。2004年兵庫県宝塚市、山口県柳井市。2005愛知県瀬戸市「愛・地球博」。2006年岩手県遠野市。2007年 東京都新宿区。2008年愛知県春日井市。2008年佐賀県小城市。2009年 鳥取県因幡地区。2009年 兵庫県淡路市・洲本市・南あわじ市。2010年 富山県砺波市・南砺市。2012年栃木県日光市。2012年富山県高岡市。どれだけの土地の資料やフォーラムのチラシ、案内文をこの大テーブルの上で作り、発送したでしょう。

筑紫哲也さんの具合が悪くなり、入退院を繰り返し、何度目か退院の際にぶらりと事務所にみえました、この頃は髪は抜け、ニットの帽子をかぶられて、それでもNEWS23に出られていました。大テーブルに両肘をついて身を預けるように座った筑紫さん、「野口さんラーメンが食べたい」と。

ラーメンね~・・・。この日はえらく忙しい日で、筑紫さんをラーメン屋さんまでお連れするのが精一杯でした。タクシーでここならいいだろうと目指したところはお休み、「筑紫さん、普通のとこでいいですか?」と、いつも私たちが食べに行く、学生や工事のおじさんなどが行くラーメン屋さんにしました。お店を見て、「あ、うまそうじゃない!」と筑紫さんは一人で入っていきました。あの時、なんで一緒に食べてあげなかったのか、今でも悔やまれます。まさかそれが最後と思わなかったので、「じゃあ、ごゆっくり」と私はすたこら帰って来たのでした。

フォーラムだけではありません、何度かやった作文コンクールもこの大テーブルがあったからできたこと。1000以上の作品が集まった、筑紫哲也賞のコンクールです。その作品を10部ずつコピーして審査員に送る、それは大きなテーブルでしかできません。あまりに忙しく、私は静岡に帰れずに、ホテル代を倹約のため、大テーブルの上に布団を敷いてで泊まったのもこの頃でした。

その後、事務所は新宿区四谷に移転します。筑紫さんの写真と共に。ここでメルマガ「スローライフ瓦版」を毎週月曜に編集し、火曜に配信する作業が始まりました。みな事務局はボランティアですから、自分の仕事もここに持ち込んで。お昼ご飯を食べた後は、睡眠不足の人は椅子を2つ使って仮眠をとりました。

時には大テーブルにスローライフ女子会などと言って、お姉さまたちが美味しいものと美味しいお酒と一緒に集まることもありました。写真は探せませんでしたが、包丁に自信のある男子が、このテーブルの上で魚をさばいてお刺身やしゃぶしゃぶ用切り身にしたこともあります。

「スローライフについて教えてください」と、大学生、高校生、新聞社、週刊誌、いろいろな取材もありました。写真は青山学院大学の学生さんたちがいらしたときの様子です。遠く島根県から修学旅行でやってきた高校生を、東京駅まで送ったとき、地下鉄に乗るのが初めてと、キョロキョロしてましたっけ。各地の自治体の方も、このテーブルで打ち合わせをしました。そのたびに土地のお土産をこのテーブルでいただいたものです。

毎月の「さんか・さろん」もこの大テーブルで準備してきました。毎回の参加者の名札書きも大事な作業。

全国各地から旬のものが送られてくると、この大テーブルで撮影、仕分け。スタッフがいただき、ブログやフェイスブックでも紹介してきました。どれだけの野菜果物、逸品がこのテーブルにのったことでしょうか。

しかしながら、この大テーブルを置ける広さの事務所が維持できなくなった今年でした。もともとお金のないNPOですが、このコロナ禍で予定していた事業がつぶれていき、収入もわずかに・・・。事務所に家賃を払う余裕はありません。勉強会「さんか・さろん」もzoomを導入、人が集まること自体が危ないことになり、事務所を引き払い、シェアオフィスに移転しようと決めたのが晩秋でした。

20年以上の活動でため込んだ紙類のほとんどを捨て、ものを無くし、いよいよ家具類も廃棄にする、その日の朝の大テーブルです。この上で、どれだけの作業をしたのだろう、どれだけの語らいをしたのだろう、そのすべてが沁み込んでいるようなテーブルを本当は抱え持ってずっと居たい気持ちです。最後に、ありがとうねと、天板を拭きました。

業者さんは手早いです。テーブルはひっくり返され、どんどん足を外していきます。大テーブルは静かに従っています。

パカリ!!と大テーブルは2つに割れました。もともとそういう仕組みのものなのですが、大テーブルが最後に運びやすい様に身を割ってくれたように思えます。もともと上質のものだったので、天板は重い重い。きっと最初より、いろんなことを経験し、いろんな話も聞いて、ずっしりとさらに重くなっているはずです。

静かに静かに、大テーブルは3階から降りていきました。2トン車の上で、邪魔にならないように薄べったく身をたたんだ大テーブルです、もうテーブルではなくその姿は廃材になっていました。

トラックを見送りながら、つい私は涙ぐみました。「これからは、小さなテーブルでもいい、そこで大きなことをやっていくからね!」大テーブルとの最後の約束です。