一本杖スキー

ゆとりある記

飯山の寺町通り、小道に咲き乱れる萩の花を愛でながらふと訪ねた「妙専寺」。

普通、お寺の境内に仏像がつきものでますが、ここには一本杖を持った軍服姿でスキーをはく男性の像が。

明治45年、長野県で初めてスキーをしたのがこのお寺の住職で、滑ったのがお寺の前の坂道だそうです。

スキーの盛んな飯山ですが、何にも始まりがあるわけで、意外なところで心打たれたのでした。

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秋の花に包まれるような小道を、「確かに信州の小京都だなあ」などと思いながら歩きました。

それぞれに個性的なお寺が11寺もある、それも充分歩ける範囲のエリアに。ここを四季折々訪ねるのもいいでしょう。

と、入ったお寺が「浄土真宗 妙専寺」でした。後から思えば、スキーのお話は伺っていたのですが、それをあまり意識していなかったので、境内に立つ軍服姿の銅像に驚いたのです。

石柱には、明治45年1月23日発祥とあります。長野県のスキーがここから出発したわけです。

日本にスキーが伝わったのは明治44年。オーストリアのレルヒ少佐という方が、新潟県高田市(現上越市)の高田第13師団の陸軍研究員14名にスキーを教えたことに始まるそうです。

そしてその翌45年、再び講習があり、このお寺の第17代住職、市川達譲が参加しました。

彼は、住職であり、また飯山の中学校の体育の先生でした。かなりハードな練習をして、滑れるようになり、スキーを買って飯山に戻ります。


当時のスキーは一本杖スキーといって、一本の杖を船を漕ぐように右に左に突き分けて滑ったそうです。スキーウエアやスキー靴もない時代に、軍服で一本杖で。

当時、スキーはレジャーどころか、軍用の訓練だったそうです。

私が見て驚いた、軍服姿で竹竿を持ったお姿は、そういうことだったのです。

市川達譲氏の像の横に、説明文がありました。そこには彼が、当時のことを後に回想した文章が載っています。

「毎日、午前9時から午後4時まで、雪が降っても風が吹いても、昼食のための1時間の休憩以外は、雪の斜面に滑る転ぶ尻餅をつく、全く雪達磨となっての訓練は、随分猛烈でしたので、――」

厳しい訓練に、シャツ一枚で汗だくだく、落伍者も多かったようですが、彼は訓練をやり通し、飯山に戻ります。

「学校のスキー一台、自分の一台を購入してきました。帰宅の翌朝、1月23日、スキーを履きて家を出ましたが、家族の者珍しがって見送る前を、得意然として大門を滑走し、町へ出て城山へ登り、中学校側の傾斜地を利用して滑走しました。」

これが、飯山、そして長野県での初めてのシュプールということなわけです。

今でこそ、スキーはレジャー、リフトや、お洒落なロッジやスノーボードはあたりまえ。雪を楽しむ時代です。この初のシュプール後、一気にスキーは一般に普及していったわけです。


寺から今の商店街の方を見ると、石段の先に緩い坂道が伸びています。市川さんはここを滑ったに違いありません。

そして「雪を征服したうれしき記念」という言葉ものこしています。

豪雪地帯の雪との闘いは、当時想像を超えるものだったでしょう。だからこそ、滑った、という嬉しさは、心から湧きだす深い意味を持つものだったのでしょう。

銅像の市川さんのお顔は、厳しく怖くもみえます。が、実は心から喜んでいたはずです。