似島に行って

ゆとりある記

広島港の沖3キロ「似島(にのしま)」に行ってきました。安芸小富士の名のなだらかな山が印象的です。ここは日清・日露戦争時から、兵士や馬の検疫に使われてきました。そして、原爆投下後は、臨時野戦病院になったそうです。周囲16キロの小さな島に、運ばれた被災者は約10,000人。その多くが亡くなったそうです。断末魔、人々は見納めの富士山として眺めたのでしょうか。

=============

広島出身のためか、20歳のころからずっと8月6日あたりの広島を撮り続けている、写真家の夫に連れられて、今回の「似島」行きでした。ネットで調べた程度の知識しかありませんでしたが、宇品の港からフェリーに乗るとき、この富士山のような形の山が目立ちます。この山をを、原爆被災者の人達は見たのだろうか?どんな思いで、と考えてしまいます。もともと検疫所のあった島には、医師や薬があったので、とりあえず被災者を応急に運んだということなのでしょう。既に息絶えていた人は、縄に結んで海中を船に引かれていったとか。

小さな島には日清、日露戦争時代から、戦地から戻った兵士や軍馬に対して、伝染病の検疫や消毒を行う検疫所があったのだそうです。それにまつわる、戦争遺跡が島内に多く残ります。うかがった日は、ちょうどほかの皆さんをガイドさんがご案内されていました。私たちも混ぜていただきました。

外地から戻った兵士は決められた桟橋から上陸し、安心となったら別の桟橋から出たのだそうです。その桟橋から原爆被災者も上陸したのでしょう。

次々と運ばれた原爆被災者の尋常でない火傷やケガに、昼夜を徹して治療や手足の切断手術が行われたのだそうです。島民たちも手助けしたそうです。それでも人は死んでいく。亡くなった人たちを、埋めたり、燃やしたりするしかない。誰だかもわからない。

これは「馬匹焼却炉」、病気の馬などを焼いたところ。この炉で、被爆者の遺体も焼いたそうです。この遺構は発掘されて、いまは似島歓迎交流センターのアスレチックなどがある公園近くに一部移設、復元されています。

たくさんの骨片や、遺骨が出てきた似島です。被災者から言えば、墓地のような島。でも今の観光客からは、キャンプや釣りで遊べるリゾートということになります。そうでなければ島の住民は暮らしていけませんものね。

慰霊碑が立ち、多くの遺骨が出た場所には、コスモスの繁る「慰霊の広場」が整備され、「似島平和資料館」がありました。ここは、住民有志がつくる「似島歴史ボランティアガイドの会」が平和学習の拠点として整備したところ。小規模ながらも、これだけの資料や遺品を展示し、維持していることに頭が下がりました。もっと公がこういうところを補助してあげればいいのに、と思います。

今は、牡蠣の養殖が盛んな島です。住民には、昔の記憶を消さないと、島で生きていけない現実があります。でも、戦争という過ちを再び選んではいけない、そのためには、私たちはここで学ばねばなりません。

帰りのフェリーからは、サミットが行われた立派なホテルが見えました。各国首脳たちは似島を知ることもなく、お国に帰って行ったのだと思います。