人口増、住民の45%が移住者。

ゆとりある記

人口減のなか、人が増えているうらやましいところへ行ってきました。和歌山県那智勝浦町、急峻な山肌に396人が暮らす色川地区、その半分近くが移住者です。

正直、なぜ?と思いましたが、説明をうかがい納得しました。即、家・農地・仕事の斡旋をしない、移住以前にお試し期間をもつ、などなど。

住民組織が作る受け入れルールは強気です、移住希望者にかしずかない。これが胆だなと思いました。
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そもそも色川に最初のIターン者がやって来たのは、昭和50年代のこと。当時はもちろんIターンという言葉さえありません。よそ者が、田舎にやってくること自体が稀でした。そこに有機農業をやりたいという、5家族がやって来た。遠縁の方が色川にいたというご縁らしいですが、まあ地元の方々は驚いたでしょう。

みんなが田舎を捨てて都会にむかおうとしている時代に、逆流を希望されたのですから。2年がかりで話し合い、昭和52年(1977年)に移住がきまったそうです。この時すでに、2年もかけて受け入れを決めていることがすごいです。あっさり断らない、あっさり引き下がらない、きっと相当に深い話し合いがあったことでしょう。

その後、同じく有機農業を目指す人たちがやってくるようになったそうです。
最初の移住者が、工場誘致で発展を、なんて人たちで無かったことが幸いでした。これまでの山里の暮らしを壊さない、さらに大切にして行くような人たちだから、地域の人も受け入れたのでしょう。

とはいえ、他所の人が入ると、様々なことがあるはず。田舎暮らしのブームなども起きましたが、色川はそれでもさらに人口は減り、地区の公共施設の維持管理もきつくなる。そこで旧住民も、定着した新住民も混じって、色川地域振興推進委員会ができました。平成3年(1991年)のことです。地域全体で新規定住者受け入れを本気で組織的にやることになった。

その後、平成7年、廃校になっていた小学校を、移住希望者がある期間住めるように、滞在できるように行政が整備しました。滞在施設ですが、基本、村の暮らしや農業を身につけてもらう塾のような建前になっています。「籠ふるさと塾」、籠というところにあるためこの名です。

家族が暮らせる部屋、一人用の部屋とあり、綺麗なお風呂も調理室もあります。家賃はひと月家族用で2万円。1年間の研修・体験を通じて定住への条件整備を行う施設。移住希望者はここで暮らしながら、本当に色川で暮らせるのか試すわけです。

いっぽう、地元側では、どんな人、家族なのか試すわけです。別に試験があるわけでもありませんが、「地区住民の15人の人に会う」ということが課せられます。委員会の指定した15人に会えば、色川の15種類の情報が入るでしょう、アドバイスや昔話もあるかもしれません。

15人の目で、その人の品定めができるわけです。視察対応してくださった地元の方々は、ズバリ、品定めとはいいませんが、要はそういうことなわけです。
滞在期間の間に15人に会えなかったり、会っても評判が悪かったり、地域の行事やルールを無視したり、色川にふさわしくないとなると、家や土地を紹介しない。そのまま定住希望者は帰ることになります。

ここがえらい、あくまでもモノサシの基準は地元側にある。各地で人の取り合いで、お支度金まで積んで「わが町に移住してください」と揉み手している土地が多いのに………。だから、結局移住者はしっかりと根付いて行くのでしょう。

今回うかがったのは、奈良県十津川村谷瀬の人たちと。谷瀬は空き家が多く移住者に来てもらいたいと、喉から手が出るほど人口を増やしたいのです。でも、「谷瀬に来てくれといっても、ここには仕事がないしね」と、いつも弱気でした。それが色川の方々の答えに、目からウロコでした。

「仕事なんて斡旋しません。斡旋できる仕事があればそもそも過疎にはなりません。色川にきて、自分で仕事を創り、生きていける人が来るんです」なるほど、仕事があるからと呼んできても、その仕事がなくなったら帰ってしまうようじゃしょうがないのです。

「先祖からの田んぼや山を、今の俺たちでダメにしちゃならない。集落を自分たちで維持して行きたい」胸をはってそう語る、色川の方々に心打たれました。

お相手してくれた、男性・女性、生粋の色川の方、Iターン者、皆、論客で考えがしっかりとし知的です。都市部の定年男性でやることのないダラけたおじさんとは全く違う。

こういう人たちと共に、泣き笑いしながらこの自然の中で暮らしたらどんなに楽しかろう!と感動しました。交通の便や、即お金に繋がる産業よりも、個人の魅力、人の繋がりの魅力が、色川が人口増になる理由だと思います。