原爆とコロナと

ゆとりある記

広島出身の夫は、毎年8月6日の広島を撮影しています。今年は私も同行しました。「75年は草木も生えぬ」といわれた広島、その75年目をむかえた今年の広島はコロナ禍でした。閑散とした平和公園、外国人のいない街、例年との違いに夫が驚きます。一瞬で街も人も焼き尽くした原爆、その年だけで14万人を超える死者が。じわじわ感染が増えるコロナが怖いといっても、戦争ほど怖いことはないでしょう。でも、いずれも原因は人間、、、そんなことを考えました。

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2025年を目指し建て替え工事の進む広島駅には、巨大な年表ボードが張り出されていました。原子爆弾が落とされた、その悲劇から今までの復興の歴史。「一歩踏み出すと、また一歩踏み出せた」という言葉。そんな繰り返しで、今があることがよくわかります。この写真の左が原爆ドーム、橋の向こうの右側が本川小学校でしょうか?400人の児童が亡くなった学校。奇跡的に助かった二人の子供は、目の前の川に入り炎が収まるのを待ったといいます。

年表をたどると、広島カープの優勝やら、フラワーフェスティバルやら、地獄から少しずつ這い上がり頑張って今の平和を築いてきたことがよくわかります。本当は、今年は「こんなに緑豊かな広島を、創ったんじゃ!」と、市民は胸を張りたかったはずです。

それがコロナの流行です。大手百貨店の門番も巨大なマスクで、予防を訴えています。「出かけるな、気を付けて、身を守って」の警報が聞こえそう。何時、ウィルスにやられるかわからない。それは何時爆弾が落ちてくるかわからない恐怖心を想像させるものです。

早朝からのお参りも、平和式典の参列も、灯篭流しも自粛され、規制されて。「こんな静かな平和公園なんて、初めてだ」と夫は首をかしげました。

私が訪れたのは8日。人気のない公園に、暑さに耐えて菊の花が立ちます。葉っぱだけがしおれて、でも花だけは咲かせて。整列姿が痛々しい。ポツンポツンと祈りを捧げに来る人たちは、強い意志をもって、どうしても来ようと思った人たちなのでしょうか?

比治山西麓の「多門院」。本堂は原爆で大破したものの、鐘楼と十三重の石塔が壊れずに今も残ります。当時鐘は供出されていましたが、その後、1949年8月5日に「NO MORE HIROSHIMAs」の文字が刻まれた新しい鐘が吊るされました。そしてその翌日の8月6日から、毎日8時15分に鐘はつかれているそうです。

早めにお盆参りをする人々が、ソトバを立てに次々とやってきていました。お参りもまずは消毒から。

街を行くと、歩ている人は地元の人たちのようです。人気のパン屋さんは入場制限、距離を置いて並びます。

ホテルのエレベーターには注意事項。これは広島に限らず、いま日本中がそうですね。要は油断できない、緊張するばかり。自分の命は自分で守るしかないのです。

一つの原子爆弾で廃墟となった広島そして、長崎も。いまおしゃれなビルが建ち、東京以上に文化の先端を感じます。見事に復興したその姿には、やっぱり人間の力はすごいと自信が持てる思いです。ただ、その戦争を起こしたのも人間です。日本軍もどれほどの人を殺し、多くの街を滅ぼしたことでしょう。いま、私たちが注意深くマスクをし、無策な政権を監視するように、コロナ禍を乗り越えても、それは何時もしていかなくてはならないでしょう。(上の写真は本川小学校平和資料館 地下展示)

どんなに人間が文明を誇っても、自然や見えない病原菌の方が強いのです。そして、人間はおろかで「繰り返しません」と誓っても、繰り返す動物なのです。