『舞姫』

ゆとりある記

高校時代のクラス会がありました。場所は敷地内に森鷗外が『舞姫』を書いた屋敷が残る上野・池之端の宿。それならばと近くの「森鷗外記念館」を訪ねました。

作品のモデルになった、ドイツから鷗外を追ってきた女性のその後が知りたかったからです。結局わからず仕舞いでしたが、懐かしい仲間の宴に浅草の“振袖さん”の踊りが飛び入りし、舞姫の夜らしいひとときとなりました。

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文学など縁のない暮らしですが、『舞姫』については、高校時代に読んでから気にはなっていました。

作品には、主人公はドイツ留学していた若き日の鷗外、そしてそこで知り合って暮らした踊り子との愛と別れが描かれています。

それはそれでいいのですが、昔から私は、芸術作品そのものよりも、作者の暮らしや作品が生まれる裏話の、生々しいところに興味がある体質です。

で、この『舞姫』については、作品の中では彼女は鷗外との別れで気がふれることになっていますが、実際は鷗外を追って日本まで来ている。でも、結局、鷗外や親戚に説得されてドイツに帰っている。その後、この女性はどうしたのか?が気になっていました。

5年間留学していた鷗外が明治21年9月に帰国。同じ月に、この女性も日本にやってきます。そして、1ヶ月ほど精養軒に滞在し再び横浜から帰ります。

その彼女の船旅の多額な旅費はどうしたのでしょう?1ヶ月の間、どんなドラマがあったのでしょう。彼女はドイツに戻ってから、『舞姫』という作品ができたことを知っていたのでしょうか?

若い頃のこの出来事を抱えて、彼女はどんな人生を送ったのでしょうか?どんなに気になっても、これは研究者に任せるしかありませんね。

鷗外は、彼女を見送った翌年の3月に結婚し、次の年の冬に『舞姫』を発表。その年の秋に長男が生まれ、その1ヶ月後に離婚しています。

クラス会の会場になったお宿は“鴎外ゆかり”のということを、けっこう売りにしていて、立派な石碑などもあり、その「森鷗外居住の跡・舞姫の間」(写真)というのも保存され宴会などに使われています。

ここで鷗外は新婚生活を送り、『舞姫』を書き、子供が生まれ、離婚する間、何を考えどんな暮らしをしていたのでしょう。

その短い結婚生活をした奥様は、どんな女性で、この人こそどんな思いでこの家で暮らしたのでしょう。『舞姫』をどんな気持ちで読み、やがて離婚するのでしょう。そしてその後は、と週刊誌的に思いめぐらしてしまうのですが、そういう現実の方が私にはいつも重要です。

そんな??を抱えながらも、クラス会の宴会は進みました。60歳のおばちゃんたちは皆元気で、カラカラと笑いよく食べます。女子校で3年間一緒だった仲間、実は、この人たちも踊り子や鷗外の別れた妻のような言い知れぬ苦楽を飲み込んで、ここに参加している人もあるはずです。

お宿の女将さんが応援しているという、浅草の舞妓さん=「振袖さん」が踊ってくれました。

この方たちも、これから私達くらいの年になるまで、いろいろなことがあるのでしょう。

みんなそれぞれに『舞姫』なんだなあ。極端に暑い日でした、でもいろいろ考える午後となりました。