奉射
「ほうしゃ」ではなく「ぶしゃ」と読むらしい。京都府綾部市志賀郷地区にある「阿須須伎(あすすき)神社」で拝見しました。「大弓神事」という、祭で奉納する弓。伝統や文化財的知識のない私には、ただただ神社の早朝の空気が清々しい。普段、お疲れ気味の地域の高齢男性たちが、射手として所作美しく、凛々しく見える。地元の見物客が「面白い行事やろ~」と自慢げ。私も、こころ射抜かれた朝でした。
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阿須々伎の「伎」の字は、「岐」が正しいとも言われますが、ここでは幟にある通りにしましょう。ま、とにかく、10月13日の朝8時、綾部市金河内町の社にうかがうと既に儀式は始まっていたのでした。綾部市周辺は、朝、霧が出ます。それだけに、神社は荘厳な雰囲気に包まれます。
前方15間、30m近い距離の先にある的を射抜くのは、なかなか大変なことです。普段は、米を作ったり、軽トラに乗っている男性たちが、紋付袴姿で、片肌脱いで、真剣な顔。祭りの前には練習をして、この日も「金的」の前に、大きな的で練習?奉射を行いますが、当たらないものです。
私は、さぞかし大勢の見物人が居て、賑わっているのかと、お菓子や飴を持参しましたが、そんな浮かれた雰囲気はありません。飴をこっそりなめるのが精いっぱい。ビューっという矢の音と、外れたその矢をまた引き抜いて砂利の上を行く草履の音。少しだけ居る観客の「ああ、惜しい」なんてささやき声さえも響く静けさです。
鳥の声がにぎやかになり、朝日が差し込んできたころ、的は本物の小さな「金的に」かわり、いよいよ難しくなりました。高齢者だけでなく、移住した若い方もお仲間に加わり挑戦していますが、普段の車の運転やパソコン作業などとは違い、これは難しい。
普通のイベントなら、時間で区切れますが、的を射抜かなければ、この行事の次の段階に移れないということ。だから、だんだん皆焦ります。「当ててくださいよ」なんて声が上がります。
時間で区切らないとはいえ「そろそろ練り込みがくるよ」とも声がかかりました。近所から幟旗を持って、集落の方々が練り歩いて神社に到着する時間が迫ってきているのです。
と、「パーーン!」と音がして、金的が射抜かれました。「当たった~~~」こちらも緊張がほぐれます。良かった良かった。射抜かれた金的がうやうやしく運ばれます。いつしか増えてきた見物客のお1人が、私の後ろで「な、面白いやろ~」と自慢げに話されます。なるほど、この厳粛さと八百長ナシのリアル感は、出来合いのイベントに慣れた都会者には、「素敵」に思えたのでした。
昔は、射手に選ばれたことは光栄だったとか。今は、なんとか維持しているとのことですが、その年季の入った所作、振る舞いが、なかなか神々しいものです。綾部市ではいわゆる限界集落を「水源の里」と呼び替えて応援しています。この神社周辺の集落も「水源の里」の仲間入りしています。普段は、それぞれバラバラに活動している集落が、この「阿須須伎(あすすき)神社」の行事ではひとつになるとのこと。
なるほど、射手のなかには、あそこの集落、ここの集落と、あちこちの男性たちのお顔があります。1本の矢は弱いけれど、3本、4本の矢は、折れない。それに従って、この行事開催のスクラム力を、地域づくりに活かせればと思います。
見事に的を射抜いた方の、安どのお顔。
見せていただくと、曲げ物でできた的の淵ギリギリに穴が開いていました。
この儀式は実に美しいものです。神事にはとかく感心することが多いですが、デザインが優れている。そこに、長年培った工夫もある。
そして、それらをきちんと用意し、守っている、集落の方々に頭が下がるのでした。
神社に練り込みが近づいてきました。前日、総練習を披露した、小学4年・6年の姉妹、中学2年の男子たちも、練に加わって、これから境内の舞台で本番です。
こういう経験をした子供たちは、濃い思い出ができることでしょう。遊びを我慢して、踊りを覚え、祭りに花を添える。その経験は地元愛に育っていきますね。
皆さんが担ぐ幟が真っ青に晴れた秋空を支えるように見えます。見守るようにたたずむ川岸の桜の古木は、来春、またすばらしい花を咲かすのでしょう。
この行事に「見においでよ」とお誘いいただき、気軽に行ってみようと予定表に書き込み、実際に参加させていただいて本当に良かったです。祭りの時間の中で、萩の花を愛で、キンモクセイの香りを嗅ぎ、集落の人々の笑顔に混ぜていただきました。
参道の入口では、大きなお鍋を運ぶご婦人の姿が。この後、一段落したら、ここで「いも煮」の直会なのでしょうか。「みんな、きちんと暮らしているんだ。私は何をやっているんだ」と、心に矢が突き刺さる思いでした。