蝉と馬と人と

ゆとりある記

広島平和公園で、沢山の蝉穴を見つけました。頭の上ではジンジンと大合唱が。爆心地近くに「馬碑」がありました。軍馬を慰霊する碑。そして、近くにはこの夏公開された旧陸軍の被爆遺構が。76年前、蝉も馬も人も一瞬に吹き飛び溶けたのでしょう。その後建った文化の象徴の高層アパートも、今や老朽化。暑さとコロナにおびえながら、やりきれない思いでかき氷をすすりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

毎年、広島へ撮影に出かける夫について今年も広島を訪ねました。駅前でPCR検査を無料でしてくれる広島県はあっぱれだと思います。その恩恵を受けて、市内をめぐりました。平和公園での式典も催しも今年は簡略に。これは去年以上にです。無観客とはいえ、五輪の大仕掛けな賑々しさに比べて、なんともさっぱりしています。炎天下、お参りする人が並ぶなか、イベント業者さんはさっさと備品を片付けていました。

夕方再び平和公園へ行くと、川沿いに人の群れ。普段なら灯篭流しのある時間、皆が視線だけを川面に送ります。平和の火がゆらゆら揺れる向こうに、やはりお参りする人の列。五輪の聖火じゃなくて、もっと大事な火はこっちでしょう!と思いました。

翌日、ニュースで話題になっていた、被爆遺跡を訪ねました。旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重兵補充隊(輜重隊)」の施設跡だそうです。そもそも、輜重隊(しちょうたい)なるものを知らない私です。戦力を維持するために、食料、武器、弾薬、衣料品、医薬品などを戦地へ送り出す部隊。車は普及していなかったため、馬を使い運んでいたとかで、発掘された6千平方メートルには、兵舎も馬を飼う厩舎(きゅうしゃ)も確認されているそうです。爆心地から1キロ、建物も人も馬も一瞬に消えたのでしょうか。

近くに馬を弔う「馬碑」がありました。これは原爆が落とされる前からのものとか、それほどに、賢い馬は人の戦いに駆り出され訓練され貢献してきたのでしょう。ちょうどそこで、一人の女性に会いました。聞けば、彼女の叔父のお父様がこの輜重隊にいらしたのだとか。そして、当時一歳だった息子(その叔父)に、8月5日の消印の手紙を出していたのだそうです。お父様が実際どこで被爆されたかは不明ですが、原爆で亡くなったそうです。5日までは、この遺構の兵舎にいらしたのでしょう。馬の面倒も見ていたのかもしれません。「叔父は77歳でここまで見に来れないので、遺構が公開されたと聞いて私が代わりに見に来たんです」と、彼女は鳥取から単身訪れ、馬碑や遺構の写真を撮り、都内に住む叔父へ電話で報告をしておいででした。

76年前の原爆投下とはいえ、今もそのことはこうして人を動かし、私の心を揺さぶります。日陰のまったくない遺構をフェンス越しに眺めながら、暑い暑いと汗をふきふき、もっともっと熱い思いをして焼け死んでいった人達のことを考えました。

遺構の奥手にそびえる基町の高層アパートを訪ねました。今から40数年前はたくさんの人が住み、賑わう文化的なアパートだったはずです。その一階にたくさんの店が活気に満ちて商売をしていた、それが今はガランとコンクリと柱が目立つだけ。数件の店もやっているのかいないのか。ここも戦後の遺構になっていくのでしょうか。

ちいさな喫茶店に逃げ込み、冷房にあたり、かき氷でひとごごち着きました。「フラッペじゃなくて、かき氷だけど、いい?」とママさんが笑います。次々と顔を出すおばあちゃんたちは、高層アパートでひとり暮らしなのでしょうか?人恋しくて自分の部屋からやってきている雰囲気です。建物はかなりの老朽化、人も老朽化しています。暑さとコロナの話で、喫茶店の時間は過ぎていきました。

戦争を始めた人間は、馬も、蝉も、みんなを巻き込み自分も死ぬことになりました。生き残った人たちは、繁栄の証のように高層建物を建てたものの、それもまた朽ちている。生きている人もコロナ感染におびえている。なんだかすべてが繋がって、やれやれと脱力してしまいます。

蝉は何年も地中で過ごし、地上に出て成虫になり、飛び、鳴き、一週間とか一カ月とかで死ぬといいます。蝉の穴はこれまでにも見たことがありますが、広島平和公園、今年8月6日の蝉穴はなんだか特別のもののように思えました。今日、いま、頭の上でジンジンと鳴き騒いでいる蝉は、何年も前からの長期政権を地中で知っていた、そしてコロナ禍、五輪真っ最中に穴から出て、短い時間、命の限り私たちに警鐘を鳴らしているのかもしれません。