戦争のかけら

ちょっとしたこと

知人が「戦争の直接体験がなくとも、後に生まれた者でも、何かしらを語り継ぐべきだ」とSNSに書いていました。そこで私が思い出したのが「傷痍軍人」の姿です。デパートの入り口で白装束で物乞いをしていました。一方、私の父のギターケースに「大雨の中、学徒出陣を見送った。次は自分だ」と当時の父のメモを発見したことも。戦争の名残の一片でも、皆が伝えねばと思います。

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●傷痍軍人さんはいろいろで、アコーディオンで戦争っぽい曲を弾いている人が居たり、飯盒(はんごう)を投げ銭入れにして、頭を垂れる前に置いていたり。白い服にゲートルを巻き、兵隊さんが被るボロボロの帽子を頭にのせて、腕を吊っていたり、足が膝までだったり、顔半分を包帯で覆っていたり。

当時小学生だった私には、異様な感じに映り強く覚えています。「かわいそうだからお金をあげたい」と私がいうと、「いいの!」と母は強く私の手を引いた。それが印象深く残っています。あの「いいの」は何だったのでしょう?子供に過去を見せたくなかったのか、自分たちが経験したつらい世界から離れたかったのか。ウキウキした気分で大好きなデパートに行くその入り口で、出会うその姿に何度も喉に何かが詰まる思いがしました。そしていつしか、その姿は無くなっていったのでした。(写真は今年の広島平和公園で)

●父のギターをもらい、フォークソングまがいのことをやっていたとき、確か私が高校生だったでしょうか。ギターケースの中の弦などをしまってあるところから、原稿用紙が出てきました。万年筆の父の字で「戦争と学生」とタイトルがありました。作文というほどのものではない、メモなのですが、一応原稿用紙のマス目に文字は収まり、書いたときの父は真剣だったことが分かります。

「学徒出陣で見送りに行った。次は自分たちだ。学生も戦争に行かなければならない。それは仕方がないだろう。」というような内容でした。「お父さん、こんなのが出て来たよ」と父に見せたとき、「ああ、昔、書いたんだよ」と父は軽く答えました。そして自分で読んだ後、どこかにしまったのか捨てたのか。あのまま、ケースにしまっておけば良かったと、今にしては思いますが、あのメモは、いざというときの父の遺言的なものだったのでしょう。そんな大学生活を彼は送っていたわけです。

●医者の叔父の家に行くといつもおいしいものが食べられて、サラリーマンの家よりお医者さんはお金持ちでいいなあ、と思っていました。大柄の叔父のはよく私を膝に抱いて可愛がってもくれました。高校の頃は、叔父の家に華道のお稽古にも行きました。ここで生まれて初めて「レタス」なるものを食べたこと覚えています。

そんな幸せそうな叔父の家ですが、叔父の頬には大きな傷がありました。「おじちゃんはシベリアで捕虜になっていて、おばちゃんはずいぶん苦労して待っていたんだよ。顔に撃たれた跡があるけど、生きて帰ったから良かったんだよ」とある日、母が話しました。レタスを食べられるお金持ちの家にも、そんな苦労があったのか。と、高校生になって知ったものです。(写真は私の千葉市の実家、近くの墓地で。子供の頃と変わらない井戸。今年6月)

●我が家には母の甥っ子が二人同居していました。○○兄ちゃん、▽▽兄ちゃんと呼んでいました。それが当たり前で過ごしていましたが、母の兄が戦死したためでした。さらに、母の母、おばあちゃんも一緒だったので、私と姉、両親、おばあちゃん、兄ちゃん二人で7人家族。父一人のサラリーでこれだけが暮らしたのですから、さぞかし家計は大変だったと思います。晩年よく父が「○○君も、▽▽君も、大学に行かせてあげられなくて・・・」と本人に詫びていました。そんな風に、昔の家庭には居候や、預かっている人とか、家族以外の人が居たものでした。(実家近くの瀬戸物屋。私が小学校の時と変わりません。今年の6月)

●夫は広島の出ですから「戦争のかけら」は「原爆のかけら」、かけらは胸に刺さったままなのでしょう、毎年8月に広島に出向き撮影することを続けています。彼が写真を始めたころ、「原爆スラム」というのがあって、トタンで囲っただけのような小屋のような家が川沿いに沢山建っていた。夫が18歳の時に、そこを撮影した写真が残ります。今年は、その場所で、新たな原爆遺構が出たということで撮影に行きました。夫も写真という手段で、伝えようとしています。

たくさんのかけらを集めれば何かが伝わる、そう思います。