青天の製糸場へ

ゆとりある記

大河ドラマ「青天を衝け」に、先日出たばかりの群馬県富岡市「富岡製糸場」を訪ねました。晴れた青空のもと、賑わっています。都内からの修学旅行もあり、ガイドさん引率のいくつもの集団が、密にならないように。父の尾高惇忠に頼まれ、14歳でここの工女第一号になった尾高ゆう。その写真に強い志を見ました。見学している同年代の少女たちは何を感じたのでしょう。

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この日は夏のような暑さ。空は真っ青、まさに青天。県民の日ということもあり、実に混んでいました。早速ガイドツアーに参加します。

あっちにもこっちにもガイドツアー、これから出発のグループ、解散しようとしているグループ。10月20日過ぎまでコロナ禍で閉館していたので、一気に人が来たのかもしれません。

ここで働いた女性たちを「工女」と呼びますが、そのお一人が後に「日記」として記録した中に、「夢かと思った。レンガ造りの建物など錦絵くらいでしか見たことがなかった」という風に書いています。今見ても、立派な建物です。通気をよくするために窓が沢山。レンガは地元の瓦所職人が焼いたもの。

ぞろぞろ歩きながら「大河でやったね」とか「ここは映ったね」などの会話が。今まで興味の無かった人も「あの渋沢栄一が・・・」と、違う見方で身を運んでいるのでしょう。

創業のころの写真。ここで働く工女さんたちは、ある意味近代日本の最先端を行く、キャリアウーマンだったわけです。

とはいえ、公募しても工女は集まらない。「フランス人は工女の血を飲む」という噂すらあったとか。赤ワインをそう思うくらい、外国人の元で働くことは覚悟のことだったのでしょう。

渋沢栄一に思想的にも影響を与えた従弟の尾崎惇忠、初代の工場長となった彼は、娘に「工女になってほしい」と頭を下げます。娘のゆうがうなづいたテレビでのシーンは印象深いものでした。この写真は14歳ではないと思いますが、工女第一号となった、強い意志と父へのやさしさを感じる眼差しです。

全国各地から集まった工女は、やがて、ここでの技術を地元へ伝え、技術指導者として各地で活躍していきます。製糸場で働く間は、労働だけでなく、文化教養も身につけた。この洋館風の建物の中で、彼女たちは最先端の特別な明治の女たちとして磨かれていきます。労働時間は7時間半と決められ、食事や教養学習も保証された上に、高給がもらえたのです。この廊下を整列して歩く、誇り高き工女たちの姿を想像しました。

大きく変化した明治初めの世の中。この頃の人達は、実に強かった。進歩や変化を自分の身体をはって切り開き、創ってきたのでしょう。世の中の仕組みが根本から変わるのですから、強くなければ耐えられません。男も女も体当たりだったのでしょうね。

今の私たちは、コロナ禍、環境破壊、地球温暖化などでオロオロしている。すべてが受け身で立ち向かおうとしない。身近な数人にウケればいい、自分に優しい人だけと付き合う。この娘たちは何?そんなことで、どうするの!とまた怒りたくなってしまうのでした。

工女さんに力をもらって、さて、お土産に「下仁田ネギ」でも担いで帰りましょうか。