稲むらの火

ゆとりある記

20年前に阪神・淡路大震災のあった日、今年の1月17日に私は和歌山県広川町にいました。

ここは安政元年の大地震・大津波で被害を受けています。その時、逃げ惑う人々を高台へと、大切な「稲むら」に火を放って導いた。この話はあまりにも有名です。

安政5年に完成した延長600mの「広村堤防」の上に立ち、海からの強風を受けながら、遥か昔のこの地の偉人のことを想いました。

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その偉人とは濱ロ梧陵(はまぐちごりょう)。1820年(文政3年)、紀州広村(現在の広川町)で生まれました。土地の名士であり、千葉県銚子の「ヤマサ醤油」の事業を継いでいたなどのことを述べたらきりがないため話題は横に置きますが、ちょうど彼が広村に帰っていた時、1854年(安政元年)に安政大地震・津波が起きました。

一度揺れがあり、津波があるかもと村人は逃げますが、大丈夫だったため家に戻ります。続いて翌日に、いよいよ再びまたさらに大きな地震が起きます。

今度こそ大津波が来ると、津浪の危険を知らせて回った彼自身もやがて津波に飲まれたそうです。が、なんとか助かり、高台にたどり着きます。

その時既に真っ暗、まだ何度も襲う津波から逃げられるようにと、人々が高台に向かえるようにと、この時、彼は沢山の稲むらに火をつけました。

稲むらは稲の束を重ねたもの、その稲わらは当時の暮らしに欠かせない貴重なものです。それに火をつけて非難する夜道の灯りとしたことが、後世、讃えられることになったわけです。

一部では、自分の家に火をつけたとか、収穫したばかりの米のついた稲の山に火をつけたとか言われますが、現地での説明では、そういうことでした。

確かに、波に追われて逃げる人々が、たくさんの稲むらが燃える中を、高台へ逃げる様子が、当時の実況図として残っていました。(写真:「稲むらの火の館」パンフレットから)懐中電灯もなく、たいまつもつけられない中での稲むらの火が、たくさんの命を救うことになったのです。

このエピソードは、「稲むらの火」という物語となり、昭和12年小学校の教科書に載ることにもなります。

そして、「稲むらの火」だけでなく、むしろその後の彼の活躍がすごかった。被害にあった人々に食料の配給、仮設住宅の提供、農具・漁具の配給など。そして、翌年には「広村堤防」の建設にかかり、3年後には完成させています。それらを私財を投じてやった。

村人には、堤防を造るという仕事を与え、子どもでも何かしら働けは、必ず日銭で支払った。だから皆、村を離れずに済んだ。

などなど聞くと、本当に頭が下がります。そして、彼はその後、日本を動かす大人物となり、政治の世界でも活躍し、1885年(明治18年)渡米中、ニューヨークで亡くなります。

いつも、こういう偉大な話に出合うと、その時彼はいくつだったのか?ということが気になります。稲に火をつけた時が34歳、堤防を完成させたのが38歳。亡くなったのが65歳。

今の人たちと比べること自体、比較に無理があるかもしれませんが、果たして、今それだけ財力がある人がいたとして、こういう判断と動きができるのかどうか・・・。

今は、地元の人の散歩道。観光の人の散策コースなどになっている、「広村堤防」からは、港とその先の海が眺められます。

沖には遥か昔に造られた堤防があり、手前にももう一つの堤防が。「広村堤防」も含めて、3層にもなっている。でも、今後の自然災害を考えると、必ず地震はあり、津波はこの堤防を越えるでしょう。

堤防近くにある「稲むらの火の館」(濱ロ梧陵記念館・津浪防災教育センター)では、繰り返し、自分自身で逃げること、常に家族でそれを話し合い約束しておくことなどがメッセージされていました。

一人一人が濱ロ梧陵になれば、自分も人も助けられるのですから。

それにしても、地方のまち・むらを襲う、人口減少の波は、半端な力ではありません。私たちはこの波に負けないように、どんな堤防を策を創るのか。濱ロ梧陵のような英断をし、素早い行動を起こすのか。

皆が少しずつの私財・私時間を投じて、動くことが、まち・むらを救うことになるでしょう。

現在の広川町津木地区をなんとか村おこししようとしているみなさんと、この堤防を視察しながら、そう考えたわけです。"