本多木蝋工業所

ゆとりある記

木蝋で「もくろう」と読みます。長崎県島原市、日本でただ一軒、化学薬品を使わずにハゼの実を圧搾機でしぼり、100%純粋な木蝋をとり、和ろうそくを作る本多俊一さんを訪ねました。

ここの木蝋は1792年雲仙普賢岳噴火の後、島原藩がハゼを植えさせ蝋で財政再建したことに始まるそうです。

和ろうそくの揺らぐ炎は精神を安定させるとか。現代こそ、この伝統技術が必要です.
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島原鉄道大三東駅からすぐのところに、本多木蝋工業所はあります。工業所といえども、資料館、売店、作業場などが連なっている広いスペース、もとは住まいなどだった建物を利用しているので、はるか昔からここで木蝋がつくられてきたような雰囲気です。


作業場の方に入ると、いきなりハゼの実が山と積まれていました。ここが木蝋作りのところなのでハゼと分かりますが、山でこの実を見ても、ハゼ、蝋の材料とわかりません。私だけでなく、わからない人が多いのではないでしょうか。


それほどまでに縁遠くなってしまった木蝋を、本多俊一さん、美佐さんご夫妻が守っておいででした。

お二人とも学校の先生だった方、家業として本多さんのお祖父様から続いていましたが、それを「もう時代遅れだからやめよう」ではなく、「貴重な伝統産業工芸館にだから残そう」と思った、それが偉い。

やはり教師という職業上、何が大切かわかる。儲かる儲からないの基準でなく、守りたい!守るべき!の一念だったのでしょう。

ここでご夫婦は、木蝋を作りながら、木蝋がどんなものなのか、そして地域にどんな存在だったのか、生涯学習として伝える活動をされています。

昭和12年に製造されて、今も現役の「玉締め式圧搾機」。国内であと数軒木蝋を作るところはありますが、薬品を使って多量に蝋を取る仕組み。これは、江戸時代からの純粋な絞り方、唯一の技術です。


隣には、実際に江戸時代に使われていた絞り機の復元したものが並んでいます。今でも絞ることができるとか。噴火でやられた島原で、人々は必死に火山灰に強いハゼを植え、蝋を絞ってきたのでしょう。


ハゼの実は、砕き、蒸し、絞られます。その液を置いておくと、上に分厚く蝋の層ができます。奥様が包丁で切って見せてくれました。分厚い氷が張ったような状態です。


それを集め、丼?に流して固めたものがロウソクなどの材料のなっていくわけです。少し緑色を帯びた土色。

初めて見る独特の色です。木蝋はJAPAN WAXといわれ、ロウソクのほか、鬢付け油、口紅、クリーム、クレヨン、医薬品、減摩剤など様々に使われてきたそうです。


さすがもと先生と思える解説は、学習に来た人たちがわかりやすいようにつくられた、多様な展示資料で説明されます。


ハゼの木の芯のところの黄色い部部分は染料になり、美しい黄色のスカーフなど染める体験もできるとか。などなど、いろいろ学べます。


昔は、ハゼ畑があって、実をちぎって収穫する「ちぎり子さん」という仕事もあったとか。ハゼはかぶれると皆が嫌がるけれども、実を収穫時期のハゼはかぶれる成分を出さないので安心なのだそうです。


ここで作った和ロウソクに火を灯していただきました。なんだかあったかな、ユラユラする炎です。洋ロウソクは中に糸の芯が入っていてただ燃えるだけ。でも、このロウソクは中が空洞になっている。空気が通って、風がなくともゆらめくということです。


眺めていると、なんだかずっと見ていたくなります。この炎とずっと一緒にいたくなります。最近は仏壇で拝みこともなく、ロウソクを使っても危ないからすぐに消す、お線香にチャッカマンで火をつけてなんてことも多いのでは。

そうなると、ロウソクは遠いものになりました。バースデーケーキや、洒落たパーティーくらいしかロウソクの出番がありません。

だから、洋も和もない。その希少な和ロウソクの材料のハゼがどんどんなくなっている、なんてことも知りませんでした。

でも今回、本物のゆらめく炎を見ました。家庭内でざわめくことが多いなら、家族で炎を見つめる時間を設けたらどうでしょう。スマホのスイッチを切って、和ロウソクを見つめる時間を作りませんか。この炎と一緒に自分と向き合えば、ストレスは溶けていくことでしょう。

今の世の中こそ、和ロウソクの出番です。しかも薬品を使わない、安全安心な和ロウソクの出番です。

ハゼの木を植えたくなりました。