被爆〇〇

ゆとりある記

「被爆」と「被曝」、「被爆者」と「被爆体験者」。その違いを恥ずかしながら、この歳になってようやく理解した夏でした。そんな私が、広島で次々と訪ねた「被爆〇〇」。それぞれに物語があり考えさせられます。被爆電車、被爆建物、被爆手水鉢、被爆ポンプ、被爆ハマユウ、被爆給水塔。東京での浮ついた暮らしに“喝”が入る、それぞれの「被爆○○」の存在感でした。

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「被爆建物 広島陸軍被服支廠」、廠(しょう)というのはだだっ広い倉庫のようなところ、ものを作ったり保管したりするような場だそうです。ほんと、思ったよりも大きい!鍵の字型に分厚い壁に覆われた建物がそびえます。服だけでなく、カバン、靴、飯ごう、手帳、兵隊が使う物いろいろが作られていたとか。60センチもの壁があり、鉄筋コンクリート製だったために壊れなかったそうです。

窓は爆風でめくれたまま。この建物は救護所になったそうです。たどり着いたものの、たくさんの方が亡くなったそうです。

住宅地にある巨大なレンガの建物。今後これをどうするのか?耐震補強をして何かに使うのか?取り壊すのか?残す方向だとは聞きましたが、ぜひ平和教育などに使っていただきたいと思いました。

「饒津(にぎつ)神社」。爆心地から1800メートル。江戸時代から続く壮大な神社だったそうです。参道に松並木があり、秋にはハギの花の名所だったとか。今は石灯籠が左右にずらりと並んでいますが、被爆当時はすべて倒れて松は燃えてしまったそうです。

それでも生き残っていた松は「被爆樹木」として大切にされてきましたが、ついに枯れて、展示だけされています。被爆したときの年輪が黒く残っていました。

この「被爆手水鉢」がすごかったです。表面の文字が欠けたり、角が落ちたり、ひびが入っている。それを大事な茶碗を金継ぎするように補修しながら使っているのでした。こんな石の塊が割れる爆風、熱、生身の人間はどんなだったのでしょう。この神社は社殿などすべて焼けて、その熱で敷石もとろけていました。

広島市街から少し離れた己斐にある園芸店「ガーデンスクエア」に建つ、「被爆給水塔」です。爆心地から2830メートル。緑の中にそびえる様子は少し、お洒落な建物?という感じもあります。

昔はここに紡績会社があり、平屋建ての工場や倉庫が並んでいたそうです。そこに井戸の水をくみ上げて送る給水塔が原爆下でも幸いに残った。今もここでは井戸の水はポンプでくみ上げて、園芸店で使っているそうです。

ここのご主人がわざわざ説明に出てきてくださいました。塔は戦後長い間に全体をツタが覆い、レンガがみえないくらいになっていたのを、3年前に全部取ったそうです。「専門家からレンガが痛むからと言われましてね。業者さんにたのみました」とのこと。そういう費用はここが負担していることでしょう。壊してしまえば簡単ですが、守っていこうという思いを強く感じます。レンガにはツタがしがみついていた跡が残っていました。

JR広島駅の近くには「被爆ポンプ」が残ります。知らない人は府と通り過ぎてしまう場所です。背中は撮影中の我が夫。ここには去年も来た覚えがあります。

 

通勤、通学で朝夕には人通りが多い所、邪魔でもあるでしょう。昔は使っていたポンプが被爆して、使えなくなっているのにそのまま77年も保存されていることに驚きます。「残してください」とメッセージがあり、それが出発になって絵本までできたとか。

「被爆ハマユウ」。比治山に駐屯していた陸軍船舶部隊の兵舎庭にあったハマユウが、被爆後に再び芽を出して咲いたとのこと。その株を分け続けて、国外まで寄贈されているのだそうです。

このように、街を歩けば「被爆○○」が日常的に見られる広島です。毎年8月には本屋さんにも原爆や戦争関係のコーナーができる。広島の人は日々、こうした「被爆○○」からのメッセージを受け取り、非戦の思いを固めているのではと思います。

日本各地に戦争の傷跡は残ります。こうしたものをきれいさっぱりなかったかのように片づけずに、汚くても、邪魔でも、残して伝えることは大事です。文字で伝えるよりも、物の伝える力は強い。

暑さの中、小さな扇風機片手の若い旅行者が多かった広島。この子たちは、どんなメッセージを持ち帰ってくれるのでしょうか。