「祈り・藤原新也」をみて
若いころ『東京漂流』や『メメント・モリ』で衝撃を受けた藤原新也、最新作も含めての特別展でした。あらためて生と死を突き付けるような作品。昔ほどのショックはなく、私が歳をとった分、死は身近で、犬が遺体を食べる写真には自分も死んだらああなるかもと思います。全体を貫く「死んだように生きるな、ちゃんと生きろ」という彼のメッセージに、姿勢を正した新年となりました。
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実はこの看板やチラシにあるマリーゴールドの花が、夏の花なのに、今もうちの窓辺で咲いています。抜いてしまおうかと何度も思うのですが、その生命力に感心し、そのまま花を眺めています。この花が、導き花のようにこの日、迎えてくれました。
昔の写真です。ガンジスの岸辺で次々と遺体が焼かれていく、そこでまたお線香をつけるためのマッチの火。足元では今、息絶えた人もあり。運ばれてきた遺体もあり。火葬の臭いも立ち込める。そんな中、死は病気ではない、当たり前のことという考えが作者の中にも広がります。そして、遺体の足を持ち上げてをむさぼる野犬の写真。藤原新也の存在を知らしめた有名なカット。ここには「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」というコピー。
コロナに怯え、マスクをしながら鑑賞しているこちらの頭を、スコーンと叩かれたように思いました。
東日本大震災被災地の写真、コロナ禍で人が居なくなった東京の写真、渋谷のハロウィーン、香港雨傘運動、自分のルーツをたどる作品、そして「死ぬな、生きろ。」の大書きの書が展示されます。電車の中で座り込んで化粧をするギャルたちの写真にあわせて「死んだように生きるな、生きろ」とのコメントが。
今の私たちに一番こたえる言葉でしょう。かよわい白いユリの花にバッタ。これも命。生き物、そしてイコール、死につながるものでもあります。
コロナも物価高も、近づく戦争も、とても太刀打ちできないからと、日々のことでその日を終えるだけの私たち。今日も「忙しい」「かわいい」「美味しい」「楽しい」「疲れた」で終わっていくだけ。死をいつも想っていれば、そんな、なおざりには生きられないはずなのに。
と、高尚に考えながらも、美術館を一歩出れば日常に戻ります。のどが渇いた、お腹が空いた。しょうがないですね、それが生きる基本だもの。死ぬということも含めて生きていく、生き物だから死んでいく。それを忘れずに暮らしましょう。
公園には「はなれて遊ぼう」「すてるな命」の看板がありました。