母99歳誕生日

ちょっとしたこと

「おばあちゃん、オッパイが垂れてるでしょう。だからこの前、下着を上まであげたら中にしまわれちゃったの。気がつかないで、あら、私のオッパイ無くなっちゃったって驚いたんだよ」。いきなりこんな話で恐縮ですが、誕生日を迎えた母が語る笑い話です。孫・曾孫が集まって、母のリクエストですき焼きパーティー。母が披露する楽しい話に、皆、大笑い。元気の源は笑いですね。

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母についてはここで何度も書いていますが、ついにこの2月24日で99歳になりました。今は千葉の私の実家で、姉が亡きあと、義兄と猫と一緒に暮らしています。私は餡子好きな母のために、京都で和菓子を買って、出張先から誕生パーティーに駆けつけました。

母の希望だった“大きなやわらかいお肉”をペロリと一枚食べた母は、食欲は衰えません。でも足が弱っています。むくみます。腫れています。股関節も痛い。ついに車いすも導入。99歳、久々の庭散歩。結構、操縦が上手です。

庭の裏には小さな畑があって、かつては自分で家庭菜園を楽しんでいたものです。この度、何年かぶりにここまで身を運びました。ステッキで指して、フキノトウを採れと・・・。花を摘めと・・・。楽しそうです。

荒れ放題の小さな畑から、家の二階にいる義兄を眺めます。「こんな景色は見納めかねえ~」

外から家猫を眺めました。「久しぶりにおばあちゃんお日様にあたったよ」

大正13年生まれ、関東大震災の翌年生まれの母です。「戦争の時は、アメリカが来たら米櫃に隠れろと言われてた」(母の実家は米屋さんで大きな米櫃があたのだそうです)。「千葉が空襲になったときは、焼けてる街をずっと歩いて帰ってきた。たくさん人が死んでた」「お父さんとはお見合いみたいな感じ。慶応ボーイで素敵だったけど、パンツなんて2枚くらいしか持ってなかったよ」(父はお婿さんの様な形で母の実家に入ります。名前だけ父の名字になりました)「みんなそうだったけどお金がなくてね、よくお金を借りに行ったよ」(これは私も連れられて、養鶏場で卵を買ってお土産に、母のお姉さんのところに行きました)「甘いもの食べたくて、ご飯やトマトに砂糖をかけた」(今も、甘いものイコール美味しい、ということになります)「セーターをよく編みなおしたっけ。蒸し器で毛糸を蒸したね」(私は、毛糸のかせを持つ役でした)「洗い張りもしたね。着物が最後は布団になってね」(その板で私は滑り台にして遊びました)「検見川がにぎやかだった。お店がいっぱいあってね」(海辺の検見川町は今は埋め立てされて、人のいない元商店街が残っています)「海に白い帆をあげた船がでて、それが戻ってくるとバケツをもって魚を買いに行った。カレイなんかたくさんとれて、お歳暮に配った」(遠浅な東京湾です。アサリやカレイなどが獲れました)「あんたたち学校にやるのによく働いたよ」(母は長年、近くの薬局の店員をしていました)「おじいちゃんがボケちゃって、死んでから火事で良かったよ」(父は晩年認知症になり、亡くなった後、実家はもらい火で全焼します)「結構、あんたとあちこち行ったよね」(しばらく家に寄りつかなかった私は、中年になってから両親と近場に旅に出たりしています)「あんたの鼻はお母さん似だね」(はい、丸いです)「来年またこの梅が見れるかね。実がなったらジャムにしてね」(はいはい)

こんな思い出話をしながらの誕生日の夜、フキ味噌ができました。「あら、上手にできたね。甘いからおいしい」と。そして母が、誕生日プレゼントのお返し?なのか、スカーフを何枚も私にくれました。「おばあちゃんね、もう、スカーフより、尿漏れパッドが大事なのよ」、これまた名言、皆が大笑いです。